幸福論

以前作ってみたらとても美味しくできたバターチキンカレー炒飯を今日再度つくってみたら、とても美味しくて宙に浮いてしまうような心持ちに包まれて大変幸せだった。やはり幸せというのはどこかしこにもあるものなのだろうなあと感慨に耽っているときに思い浮かんだのは夏目漱石の『硝子戸の中』と正岡子規の『病牀六尺』で、自身の身体がどこにあろうとも深い洞察が出来る者こそが本当の幸せを手に入れることが出来るのではなかろうか、などとぼんやりと考えている。「幸せを手に入れる」という言葉があるくらいだから当然手の届く場所にあってしかるべきであるよなあ、などとぼんやりと考えることが出来るのは今日がお休みだからであって、長らく続いた若干忙しい日々が一段落着いて、なんだか頭の中はぼんやりと、身体はぐんにゃりとしている。そうはいっても、つまりはぐんにゃりとは言っても何も夏にバテているわけではない。むしろ最近は体調が大変よく、夏の暑さもそれほど厳しくない昨今であるからして、それらの相乗効果ゆえにとっても体調がよいのである。話は戻って幸せについて。どうやらかつての自分は手に届かないところにあるものを幸せと名付ける傾向にあったようで、随分と不平ばかりこぼしていたように思われる。ここ数年は自分の手に届かない場所にあるところに手が届く人のことを見ても、「ああ、彼は手が長い。私の手は短い。」と悲観的というよりはむしろ客観的に物事を捉えるようにしている。手の長さを嘆くことはおそらく必要のないことで、手が長ければ長かったでそれなりの苦労というものがあるものだ。ぶらりぶらりとぶら下げていることで幸福のみならず不幸にもぶつかる可能性が高まるかもしれないし、その手を羨み妬むものまで出てくるかもしれない。一方で自分の手のあるいは腕の長さに満足し、その範囲にあるもので充足している者はそのような心配はないだろう。老子は「足るを知る」ことを説いたが、なるほどたしかに我々は知るべきことを知ることにこそ努力すべきなのかもしれない。そうした努力を怠らない人とともにいることは、それもまた幸せなことのように思われる。