海のように暗い。深い。

久々の帰郷だったから自転車で家の近くの港に行ってきた。夜に。この港は、僕が受験生のときに「一体受験勉強なんてものに何の意味があるんだろう」という現実逃避に走るためによく夜中に訪れていた場所だ。防波堤の上で何時間もコーヒーとココアを飲みながら「こんな勉強を大学生になっても続けなくちゃいけないんだったら、いっそのこと大学なんて行く必要ないんじゃないか」なんてことを思いながらの暗い青春時代(暗黒の十代後期と自称されています(笑))を過ごした、いわば避難所のような場所だけど、そんな避難所に入れなくなっていた。工事中で。新しくするらしい。

でも、なんだか象徴的だなあ、なんてことを思った。もうココのことは忘れろってことかな。今回も実家に帰るのを躊躇っていたし。「ニューシネマ・パラダイス」。うん、「ニューシネマ・パラダイス」。避難所には入れなかったけど、海の見える公園のベンチには誰もいなかった。だから、そのベンチに座ってみた。そこからは遠くに宮島が見えて、目の前は真っ暗闇の海で。ベンチの上に寝転がってみたら相変わらずオリオン座が見えた。でも、ココから見えるのはオリオン座だけではなくて北斗七星も見えるし、小さな星もたくさん見えて。ああ、そうか僕は昔天文学者になりたかったんだったなあ、ということを思い出す。そして、過ぎ去った過去のことを想う。届かないものになんとか手を伸ばすように想起する。イメージが過剰になり、やめる。

この避難所には誰も連れてきたことはないけど、すごく素敵な場所で、今度大切な人ができたときには連れてきてみよう。喜んでくれるかな?なんてこと想像しちゃったりしてるとコーヒーが冷たくなってることに気づいてそろそろ帰るかって自転車を走らせる。

そう。自分の足で漕いで行くんだ。そう決めたんだ。なんていつものように青臭いことを帰り道にこっそり思うわけだけど、東京にいるといろいろなものを見失ってしまうのは事実だと思う。小さいころから都会に住んでいるとそのものの存在自体に気づかずに育ってしまうのかな?テレビでは年末年始にも関わらず受験生は勉強だとか言っていた。そこまでして勝つべき戦争なんてどこにあるのだろう。このグローバル資本主義社会では対象を喪失した欲望の質化としての快楽にいたるための手段が消費しかない、なんてこと言っている人がいたけど、なるほど大学名というのはいまやその消費物に過ぎないのだなあ。ブランド品をあさるオバサンたちが今度は大学のブランドネームを消費するべく子供たちを塾に行かせて有名大学に入れる。大学に入るまでが「勉強」で、それって「学問」では全然ないのに子供たちはその「勉強」が大事であると勘違いする。一方で「学問」を志向している人はそんな「勉強」がつまらなくなって「学問」まで行き着かない。そんな構図が今の世の中(教育)には見られる気がする。なんだか倒錯的だなあ。アディクトされているというか、無自覚的に色々なものを選択していく(もちろん作為的に選択させられてる*1)。そんな姿勢を批判したかっただけなのだ、以前大企業に入って働くことが云々とか書いたのは。マジョリティを動かしているものがはじめから対象の失われた欲望に基づくものであったときにその対象の欠如を暴露するマイノリティの正当性が無視されることに少し我慢ならなかっただけだ。精神分析の問題点があるとしたら、やはりココなのかもしれない。もちろん、それは東が指摘したことだけど。

一体全体何の話をしているのだろうか、なんてこと思うけど、きっと僕はこんな風にしか生きていけないし、語れないのだろう。でも、教育の話をし始めたら、すこし歳を感じてしまう。なんとかして学問の復興には少しでも貢献できたらいいな、なんてやっぱり青臭いことを思いながら、実は「青い時間」って今なんじゃないか、なんてこと思ってみたりする。

でも、もう少しだけ青いままでいさせてください。一生青春するだなんて言わないから。

*1:「情動の政治」?ちなみにここらへんの話は『談』no.76より