平成最後の夏らしい

どうやら今年で平成最後の夏ということらしい。その夏もお盆がすぎてピークが過ぎたと言われている。

前に日記を書いたのが1年4ヶ月前らしい。日記を書かなくなった主たる理由は小さなことをツイッターに書くようになってしまったこととプライベートというか生活そのものを充実させずにやりたいことに注力しようと思ったからのように思われる。

さて、時は経ち住む場所も変わったが自身の中身はどの程度変わったのだろうか。何も変わっていないという気もするがいろいろなことがあったのは確かだったりする。荒波に揉まれたような揉まれていないような気もするが、辛いことはあれからそれからやっぱりたくさん経験した。そもそもブログを始めた当初は、いいなと思った音楽や本のメモであり日記を公の場で書いてみるという試みのためだったように思われる。そしてその書くという行為で救われている部分がかなりあったのは確かだ。何度か触れたことはあるが元来日記を書くのはとても好きで実家には子供の頃に書いた大量のノートが残されている。ついでに小学生のころに書いた小説も残されているがこちらは残念ながらあまりセンスはよくない。

このブログの最初の記事を確かめると、12年と5ヶ月前に書き始めたということが分かる。先日ツイッターに登録してから10週年という報せが来たが、そう考えると自分が思っているほどブログは書いていなかったのだということが分かる。まあ、毎日ようにそこそこ長い文章を書いている時期が結構あったので、年数だけでは測れないけれど。

そういうことでどういうことが分からないけれど、平成最後の夏というのが終わりかけている。夏休みに近所の久野くんのお母さんがみていたドラマの曲『リバーサイドホテル』を聴いている。大人な歌だ。

no title

さて、2017年の4月らしい。2015年の4月3日、つまりは2年ほど前に更新された自分の文章、というか文章にすらなっていない謎の記録であるところの「サクラサク、サクラチル」という言葉の断片と桜の写真を眺めながら何だっけ桜が咲いたのはそのとき確かに咲いてはいたのを覚えているけれどサクラチルというのは何が例えられているのだろうかと記憶もとうとうあやふやになってしまった。2年の月日というのは長いのだろうか、短いのだろうか。今の自分にとっては1年というのはあっという間で「ああ」と迷い「ええと」とか考えこんでいるうちに1年が過ぎてしまうようになってしまった。歳を重ねれば重ねるほど一年が短くなり一日が短くなるなどと書かれた文章を何度も読んだことがあるが、これほどまでに短くなるとは思ってはいなかったような気がする。放っておいても、放っておくと時間は勝手に進んでいく。

続いて「前の日」をクリックしてみる。2014年3月16日。1年開いて今から3年前だ。3年前。2014年。何があっただろう。人間の記憶というのは本当に心許ないものでちっとも思い出せないのだけれどそれを知っているからちゃんと記録を残していてそれを眺めていると色々なことが思い出される。ことにふれて書きつけられたメモの断片は過去の自分から未来の自分への啓示のようなものだろうか。過去の自分は神様のような超越的な存在ではないけれど、いくつかファイルを開いてみると何やら自分を助けてくれそうな言葉が書かれている。その言葉の多くは年長者に向けて「××というときはどうすればよいでしょうか?」という質問に対する答えで、その答えは自身が一人でない知恵を絞っただけでは到底たどり着きそうにないヒントが隠されている。人間というのは概ね同じような失敗を繰り返す生き物らしい。そう言葉にしたところでどうなるわけでもないが、ほっとしないというわけでもない。明日もなんとかやれそうな気がするだけでも少し救われる。

一番前に書いた日記ってなんだっけ、と「記事一覧」で調べてみたら2006年の3月25日だった。11年も経ったらしい。長かったのか短かったのかはよく分からない。11年後の自分、ちっとも想像できないな。

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どうにも昨年から生活リズムがよろしくない。なぜだろうかと理由を考えていたのだけれど、おそらく日本時間で生活していないからなのではないかという気になってきた。海外の時間で生活していてさあ、なんて気取った格好いい感じでもないのだけれど、海外の時間で生活しているのは確か。夜勤のある仕事だとか、お天道様に同期しない生活をしている人たちはどのように対策を立てているのだろう。先日睡眠に関する本を読んだら、日光をうまく活用するためにサングラスをしたり太陽の光と同程度の明るさの光を照射したりして生活リズムを整えたりするらしい。仕事や労働の本を読んでいたら、ほんの数十年前までは現代人ほど働いてはいなかったらしい。どこまでが本当なのか分からないけれど、いつの世に生まれても人間というのは大変なのだな、自分も含めてみんな偉いなあと感心せざるを得ない。ご苦労なことである。

季節はいよいよ春めいてきた。夜はまだ若干寒いけれど、日中陽射しのある場所はとても暖かい。花粉が飛んでいるようで、鼻はむずむずするし、くしゃみも度々。あと少ししたら桜が咲いて鶯が鳴き始めるのだろうか。誕生日が来て、また一つ歳を重ねて。

このところ、少しだけ映画をたくさん見ている。そうはいっても大学生のときのように無闇にたくさん見ることは出来ないのだけれど、好きなように気儘に見ている。最近は『苦役列車』『酔いどれ詩人になるまえに』『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』『ザ・マスター』『地獄でなぜ悪い』を見た。『苦役列車』『酔いどれ詩人になるまえに』を見て自分は到底彼らのような文学的な生き方はできないなあと自らの平凡な生き方を省みて(同時にそれでいいやと肯定して)、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』を見て自分は石油王にはなれそうにないなあと夢を諦め(そもそも石油王になるつもりはなかったことを思い出して)、『ザ・マスター』を見てフィリップシーモアホフマンを勝手に追悼し、『地獄でなぜ悪い』を見て自分はこんなに悪ふざけはできない割と真面目な人間ですから不器用ですからと高倉健になった。

とりあえず明日の朝7時締め切りのタスクが終わるまで眠れないけれど、まあ明日もがんばってみよう。今年は前向きなのである。前を向くくらいしか出来ることはないのである。

no title

さて日記。書くと決めたのだから、ちょくちょく書く。

ここ半年くらい月曜日締め切りのタスクが多くて土日にも作業をしていることが多い。基本的に土日は休んだ方が生産性は上がるので、注意しないといけないのだれど気を抜くとすぐにこんな生活を始めてしまう。

今週は久しぶりに元所属大学の研究会に出かけてみた。当日プリントアウトしておいたちょっと気になる論文を手にしていたのだけれど、どうやら以前のような研究とは遠い世界に移住してしまったみたいだ。手元にある論文の方がずっと面白い。ずっとコンプレックスだった専門性のようなものが、自分にもようやく出来たのだろう。そうやって前向きに捉えることにした。

さて、プライベート。あまり新しい音楽のことは追いかけなくなってきているのでくわしいことは分からないけれど、Sky Ferreiraとかが割といい感じなのだろうか。ルックスはとても好きだけれど、いかんせん音楽活動は好きになれない。7年前のエレクトロ全盛みたいなときならまだしも、いまやスカスカの安っぽいエレクトロはただの安っぽい音にしか聴こえない。そう考えると、Annieの1stあたりは本当によかった。4ADが売り出してるLo-Fangとかはわりとアルバム良かったけれど、すごく好みというわけでもない。Inc.っぽいんだけど、Inc.の方が好き。なんて評論家めいたことを言ってみたけれど、まあ単にちょっとした嗜好にすぎなかったりする。そうそう、Warpaintも聴いてみたけれど、いまいちピンとこなかった。かっこいいんだけど。エレクトロ以降では、なんか暗い感じ(J.Blakeとかxxyyxxとか)もいいけれど、どちらかというとvaporwaveみたいな作りこんだ安っぽくて嘘っぽい音楽が好きかもしれない。でも、Saint PepsiMacintosh Plus以降はあまり出てこない感じなのかな。サンプリングとか、Avalanchesを彷彿とさせて最高なんだけどな。

そんな感じで結局音楽の話が主になってしまった。今日は映画の日なのだけれど、何か見ようか。ディカプリオが見たい。


SAINT PEPSI - Hit Vib

Macintosh Plus - Floral Shoppe

雪の日の朝の決意表明

東京はまた雪。先日あっという間にベランダに降り積もってゆく雪を部屋の中から眺めながら、ああこんなにも東京に雪が降ることってあるんだなあ、とぼんやりしていたのもつかの間、一昨日の深夜から降り始めた雪はあっという間に東京を真っ白な雪で包み込んだ。今朝も息が真っ白になるくらい空気が冷たい。

何かを考える。そのことを放棄していたわけではないけれど、何か一つの流れの中で考えるということは少し放棄していたのかもしれない。自宅に何も無いので作ろうにも作れなかった炒飯を近所のお店で買ってきて、机の上で頬張りながらそんなことを考えていた。書きたいことがないなんて嘯いていたけれど、もともと書きたいことなんてなくって、ただ気儘に書き綴るだけだった日記が、何やら重荷になってしまっていたのは何故だろう。日記に書くことと普段の生活にいくらかのズレがあるのは当たり前で、でもそのことに対して何か言われてしまうことが少々厄介で。嘘で重ねられた日々ではないけれど、それは何らかのフィルター越しに見た世界であることには間違いなくて。

そうした同じような理由から日記というものを書く人が減ったわけでは決してないのだろうけれど、やっぱり140文字で書きあらわせるものとはちょっと違ったものがこうした日記にはあるような気がする。だからといって何が優れているとか何が劣っているとか何がダメで何が良いとかそういうわけではないけれど。

つまりは、なんだか少し書きたい気分なので、今年は昨年よりは文章を書きたいな、なんていう2月も半ばになった今更の新年の決意表明なのでした。

Jerry Paper - Reprogram Ourselves

(最近見た映画)

・『人生はビギナーズマイク・ミルズ

奔放な父親と後ろ向きな息子の会話。

「お前はライオンを追いかけているときにキリンに出会ったらどうする?」

「ライオンを追いかけるよ」

「だから心配なんだ」

目の前にあるもの、手に入るもので満足することがやっぱり幸せに生きるコツなのかもしれない。

・『華麗なるギャツビーバズ・ラーマン

かなわない恋ほど燃え上がる、なんて最近はあまり思わない年齢になってしまったけれど、それでもやっぱり一人の女性を愛し続けるギャツビーに惹かれてしまう。デイジーとギャツビーが再会してほんの僅かな時間だけ心が通い合ったかのように感じられた時間。そのシーンが本当によかった。恋をしているときの浮遊感に浸れるシーン。

・『英国王のスピーチトム・フーパー

大きな仕事を成し遂げた人には、それを支えた人がいる。それはあたり前のことだけれど、ときどき忘れそうになってしまう。その忘れそうになってしまいがちな事実をしっかりと記憶に焼きつけてくれた作品。

幸福論

以前作ってみたらとても美味しくできたバターチキンカレー炒飯を今日再度つくってみたら、とても美味しくて宙に浮いてしまうような心持ちに包まれて大変幸せだった。やはり幸せというのはどこかしこにもあるものなのだろうなあと感慨に耽っているときに思い浮かんだのは夏目漱石の『硝子戸の中』と正岡子規の『病牀六尺』で、自身の身体がどこにあろうとも深い洞察が出来る者こそが本当の幸せを手に入れることが出来るのではなかろうか、などとぼんやりと考えている。「幸せを手に入れる」という言葉があるくらいだから当然手の届く場所にあってしかるべきであるよなあ、などとぼんやりと考えることが出来るのは今日がお休みだからであって、長らく続いた若干忙しい日々が一段落着いて、なんだか頭の中はぼんやりと、身体はぐんにゃりとしている。そうはいっても、つまりはぐんにゃりとは言っても何も夏にバテているわけではない。むしろ最近は体調が大変よく、夏の暑さもそれほど厳しくない昨今であるからして、それらの相乗効果ゆえにとっても体調がよいのである。話は戻って幸せについて。どうやらかつての自分は手に届かないところにあるものを幸せと名付ける傾向にあったようで、随分と不平ばかりこぼしていたように思われる。ここ数年は自分の手に届かない場所にあるところに手が届く人のことを見ても、「ああ、彼は手が長い。私の手は短い。」と悲観的というよりはむしろ客観的に物事を捉えるようにしている。手の長さを嘆くことはおそらく必要のないことで、手が長ければ長かったでそれなりの苦労というものがあるものだ。ぶらりぶらりとぶら下げていることで幸福のみならず不幸にもぶつかる可能性が高まるかもしれないし、その手を羨み妬むものまで出てくるかもしれない。一方で自分の手のあるいは腕の長さに満足し、その範囲にあるもので充足している者はそのような心配はないだろう。老子は「足るを知る」ことを説いたが、なるほどたしかに我々は知るべきことを知ることにこそ努力すべきなのかもしれない。そうした努力を怠らない人とともにいることは、それもまた幸せなことのように思われる。