バグダッド・カフェ / パーシー・アドロン


文句なしに映画ファンをうならせる傑作。舞台はアメリカ西部、モハーベ砂漠にたたずむさびれたモーテル「バグダット・カフェ」。そこは日々の生活に疲れきったモーテルの女主人や、日夜遊びに明け暮れる娘、売れない画家、ピアノの弾けないピアニストなど、うだつのあがらない人々が集う場所だった。そこへやってきたのがドイツ人のジャスミン。彼女の出現は、徐々に周りを変えていく…。
本作は砂漠のように枯れ果てた人々の心に、たっぷりの水で潤いを与えてくれる映画である。砂漠色の黄色を基調に描いた映像には夕暮れ時の物憂げさがあり、バックに流れる名曲『コーリング・ユー』はひたひたと静かな感動を呼び覚ます。この歌が軽快なリズムに変わっていくにつれ、ジャスミンの魔法は花開き、人々に笑顔が戻っていく。ジャスミン役のマリアンネ・ゼーゲブレヒトの印象が強烈だ。87年、西ドイツ作品。(齋藤リエ)

行き場のない人々が集うと音楽が生まれ、家族が生まれ、愛が生まれる。

疲れてしまった心を癒してくれるのはときに一番近くの人で、ときにどこかからやってきた人だ。

パリ、テキサス』の主人公は砂漠に迷い都会に戻りそして都会を去っていった『バグダッド・カフェ』の主人公も砂漠に迷い都会に戻りそして砂漠へと戻ってきた。

「ここではないどこか」というのは実は都会にあるのではないのかもしれない。都会というのは砂漠よりも乾燥している。僕たちはただの水たまり(都会のオアシス)を求めているのではなくて本当のオアシスを求めているのかもしれない。砂漠の中のオアシスを。

「出会い」があれば「別れ」がある。人生において「出会い」と「別れ」は同じものを指している。生が死を意味しているように。後者は確かに避けられないかもしれない。しかし、前者は避けることができる。家族になればよい。「家族になる」ということは「別れたくない」という言葉を暗に意味するのではないか。「家族」という言葉が血のつながりを意味しなくなったのは何も近年に始まったことではないだろう。どうして人々は家族などという単位を作りあげたのかといえば、それは単に「別れたくなかった」からではないか。

僕は'すぴりちゅある'は信じないが、魔法は信じる。なぜなら、映画は時に僕らに魔法をかけるからだ。ジャスミンの魔法はスクリーンの中の人々だけではなく、スクリーンの外の人々にも向けられる。しかし、勿論映画に終りがあるように魔法はいづれ解ける。解けた後にどうするか。それは映画を見終わったあとに僕たちが考えなければいけないことだ。映画は答を出してはくれない。答を出すのはあくまでも「こちら」だ。そうした意味で細木カズコのようなまるで「知っていると想定される主体」であるかのような彼女のパロールは大変ばかげていると思う。騙されてはいけない。彼女は未来も知らなければ何をも知らない。彼女が何も知らないことを知る術がないのも事実であるが。まあ、こんなのは余談である。

解けつつある魔法の余韻に浸りながらそんなことを考えていた。しかし、また新たな魔法がかけられるのだ。新しい一日の始まりとともに。