家族と他者 見る前に跳べ
僕はよく「家族」について考える。
「家族シネマ」という映画を観た時にも、そのことを少しだけ書いたし、「ミリオンダラー・ベイビー」を観たときにも書いた。
『グラスホッパー』を読んだときにも書いた。
おそらく、何故こんなことを考えるかというと、彼らと僕の関係性が実に奇妙だからだ。
1.なぜだか知らないけど生まれて気づいたら彼らは僕を育てていた。
2.本当に自分が彼らから生まれたのか、僕にはどうやってもわからない。
3.何のために僕を育てているのか。
4.「家族」なんて枠組みを持ち出されたところで、結局他人だ。
いつもこんなことが気がかりになるからだ。
この考え方をぬぐうことは容易ではないだろう。
僕は「家族」の条件が気になって仕方ないのだ。
どういう条件がそろえば、家族といえるんだろうか?
どうやら、「血がつながっている」というのは「家族」の条件ではない気がする。
「家族」の間に「無条件の愛」なるものも存在していない。
さぁ、「家族」って何よ?
これが僕の「家族」に対する疑問だ。
で、今日某ブログでこんなことが書いてあった。
<家族というものが当たり前すぎて、そこから得ているものを忘れているんじゃないか?>
これを読んで、「なるほど」と思った。
どんな疑問を持ったって僕の自由なんだろうけど、家族に「生かされている」というのも事実だと思う。
だから、上記の疑問を持つのは勝手だけど、同時に感謝もすべきなんではないか?
そんな気がした。
別にそれら二つのことは同時にできないことなわけではないし。
きっと、血の繋がっている家族も「家族」なんだろうし、これからいろんな「家族」が増えていったていいわけだ。
「見る前に跳べ」
僕がいつもできないのはこのことだ。
万全の対策を練って、大失敗をしないようにしてから僕は跳ぶ。
でも、そんなことやったって、崖の底に落ちるときは落ちるのだ。
明日から少しだけ何とか変わってみよう。
見る前に跳ぶんだ。