消えかけた光の中で ありきたりの病に罹る

「もしあの時」という問いが成立するのなら、誰もが「そのとき」すべきであったと考えられる行為を行うだろうか。

どうして脳は覚えておきたくないものばかりを記憶の井戸の底にたまった過去の屍骸から見事に見つけ出して掘り返してくるのだろう。

「あの時こうすべきだった」とか「本当の自分はこうだ」とか、そんなものありやしないのに。あるのは「この瞬間」で、「この自分」で。

だが、「この自分」すら失ってしまった者はどうしろというのだ。

ただ闇の中を歩くだけ。方角なんて初めからわからない。

右とか左とか、そんなの人間が勝手につくり上げただけ。

「この自分」だって。幻想ではないのか。

無知におぼれている者は

あやめもわからぬ闇を行く

明知に自足するものは

いっそう深い闇を行く



ウパニシャッド

 しかし、あり得べき自分を考えるなんて、それはバカげた、こどものノスタルジヤじゃないか。人間はひとつしか選択できないし、くだらない奴になると、そのうちには選択することの不安さが荷厄介になり、そうだ斯波、存在以外に絶対に本質はあり得ないんだ。そう考えるんだぜ。どういうことだ?
 つまり、多くの人間は、ある自分を考えるのが窒息的だから、あり得る・あり得べき自分を妄想してそれに近づこうとしている。それこそ軽薄で傲慢だ。逃亡なんだ。自慰だよ。選択というのは積極的意志なんだから、あり得べき状態なんてことで愚劣な大時代な悲劇を感ずるなというんだ。


開高健 『あかでみあ めらんこりあ』