事後的な事故。

boy-smith2007-03-28

「ねじまき鳥さんは死についてあまり考えないの?」
「考えることはもちろんある。でもいつもじゃない。ときどきだよ。世間一般の人とおなじようにね」
「ねえ、ねじまき鳥さん」と笠原メイは言った。「私は思うんだけれど、人間というのはきっとみんなそれぞれ違うものを自分の存在の中心に持って生まれてくるのね。そしてそのひとつひとつ違うものが熱源みたいになって、ひとりひとりの人間を中から動かしているの。もちろん私にもそれはあるんだけれど、ときどきそれが自分の手に負えなくなってしまうんだ。私はそれが私の中で勝手に膨らんだり縮んだりして私を揺さぶるときの感じをなんとか人に伝えたいのよ。でもそれはわかってもらえない。もちろん私の言い方が悪いということはあるんだけど、でもみんなは私の言うことなんてロクに聞いていないのよ。聞いているふりはしているけれど、本当は何も聞いてない。だから私は時々苛々するし、それで無茶苦茶なことをしちゃうの」


ねじまき鳥クロニクル』 村上春樹

幸せの青い鳥は実は初めから「幸せの青い鳥」だった。

メーテルリンクの『青い鳥』読んだことはないのだけど、結末はそうなっているらしい。

大切なものを失ったあとにそれが「大切なもの」であったことに気づくというのは世の常だ。

だとしたら、「幸せになるために生きている」なんて言い方できるのだろうか。是非とも彼を問い詰めたい。事後的にしか分からない「幸せ」を捜し求めることなんて可能なのか?

僕は敢えて言いたい。可能だ、と。

日付の変わる頃にカレーを食べながらそんなことを考えていた。

今日は暖かい一日だった。空虚な時間を埋めるのにちょうどよい暖かさというのがある。今日はそんなちょうど良い日だった。

夕方からは出稼ぎに行ってプログラムを書いていた。相変わらず思うのだけど、自分はプログラミングの才能がまったくない。さてさて、どうやって生きていこうか。いつも問題は振り出しにもどる。

明日は大学院に行って書類をゲットしてこよう。なんだか何もかもよく分からなくなってきた。人と違う人生を生きるというのは大変だ。他人は自分のことを「自由に生きていて羨ましい」と言うけれど、いままで自由であったためしはない。

生まれてこのかた吐き気がするほど様々なことを常に考えている自分のどこが自由なのだろうか。自由の意味を履き違えてはいけない。靴の右足と左足も履き違えてはいけない。歩きにくい。

The Whitest Boy Alive - burning