伝わらない言葉。届かない距離。










目覚めよと人魚は歌う (新潮文庫)』 / 星野智幸

大きな目は少し緑がかって睫毛が長く肌は薄いシナモン色をした日系ペルー人の青年ヒヨヒトは、暴走族との乱闘事件に巻き込まれ伊豆高原の家に逃げ込んだ。そこでは恋人との夢のような想い出に生きる女・糖子が疑似家族を作って暮らしていた。自分の居場所が見つからないふたりが出逢い触れ合った数日間を、サルサのリズムにのせて濃密に鮮やかに艶かしく描く。三島由紀夫賞受賞作。

 電気仕掛けのような夜だった。天頂にぶらさがった月は巨大な白熱球の形をして、赤土がむきだしの台地やススキ野原を、氷河の色に照らしていた。蛙に代わって鳴き始めた秋の虫は、ジーィという電磁波を送ってわたしを乗っ取り、操ろうとする。群青に透きとおった大気を縫って、涼しい空気の混じった風はそよぎ続け、プラチナ色に輝くススキの穂をふるわせ、波打ちぎわにも似たさざめきを絶やさない。

『目覚めよと人魚は歌う』冒頭より

星野智幸の小説は初めて読んだのだが、彼の作品は解説の部分で角田光代が書いているように突然異国へ連れて来られたような感覚を起こさせる。まるで昨日見た映画『バグダッド・カフェ』に出てくるドイツ人の女の役割をあてがわれた気分だ。

事件を起こし逃げる恋人同士の「ヒヨ」と「あな」が逃げ込んだ家に住んでいたのは自らを「死んでいる」という糖子。彼女に関してはその二人と同様読者の我々には全く異質な存在にうつる。明らかに影のある女性なのだが、そもそも逃げ込んだ家自体、逃げ込むという状況自体が異質なのだから、その異質性と相俟って彼女の異質性がどこからくるものなのかを一向に理解できない。

しかし、糖子の「わたしと似ている」という言葉通り二人は糖子に惹かれ、交わり、そして拒む。過去を言葉にすることで糖子は彼らを自分のいる「死んだ」世界に連れ込もうとするのだけれど、その世界と自分の思い描く世界の僅かな"ズレ"を感じ取った「ヒヨ」と「あな」はこの家を去ることになる。彼らは過去の奴隷であることを拒むという選択をとったのだ。ここで重要なことは、この"ズレ"を積極的に受け入れることが出来るか出来ないか、それが糖子と「ヒヨ」、「あな」の違い、「屍」と「生きた人間」の違いなのではないか、ということだろう。解説にはこう書かれている。

 現実は、世界は、いつも言葉の先にある。言葉がそれにおいついても微妙なズレがある。体や心が知る痛みと、痛いという言葉のあいだには、いつだって隙間がある。そのズレを作者は執拗なほど誠実に描く。言葉を書くことでその奥にあるものをたちあらわさせようとし、言葉の奥にあるものを書くことで、世界と私たちの脆くも頼りない接点としての言葉を書く。

「満ちたりない」、「伝わらない」、「分からない」。僕らは常にそうしたネガティブな感情に対して開かれている。何故か?自分の中にある世界と言語化された世界の"ズレ"を感じてしまうからだ。昔ある女の子がこんなことを言っていた。

『わたし、言葉を多く知らないから、なかなかキモチを伝えられないの。もっと言葉を覚えなきゃ』

それから彼女と会うことはないが、もし今会ったら僕は是非とも訊ねたい。

『君の探していた「コトバ」は見つかったかい?』

彼女はどう答えるだろう。探し物は見つかったかもしれないけれど、それは「コトバ」の中には見つけられなかったのではないだろうか。今思えば、彼女にそのことを教えてあげれば良かったと思わなくもないが、探し物は自分で見つけようとしないと見つからないから、これでよかったのだとも思う。悩まずに得られたものなんてそこら辺のコンビニで売っているような安物にすぎないのだから。

星野智幸の小説は僕を時空間を越えた世界に連れ込み、逆説的に「現実」と対峙させてくれた。何気ない日常を描く堀江敏幸は直接的に「現実」と対峙させてくれるのだが、こういう方法もあるのだなと思った。まるで映画のような小説だった。社会性も強く、そして生々しい表現で描くスタイルは僕があまり好きではない村上龍を思い起こさせるが、冗長でないぶん受け入れ易かった。他の彼の作品も読んでみようかと思った。