生きてるだけで、愛。 / 本谷有希子

生きてるだけで、愛

生きてるだけで、愛

あたし、楽されるといらつくんだよ。あたしがこんだけあんたに感情ぶつけてるのに楽されるとね、元取れてないなあって思っちゃうんだよね。あんたの選んでる言葉って結局あんたの気持ちじゃなくて、あたしを納得させるための言葉でしょ?

あらすじ--

主人公の寧子は鬱の症状に悩まされる女の子。バイト先で他人の勝手なトラブルに巻き込まれ、それが理由で仕事を辞め、そのまま仕事もせずに彼氏の津奈木の3DKのマンションの一室に籠ったきり部屋から出ようとしない。津奈木は自分にあたかも無関心でその無関心さに寧子は腹をたてる。何もかもうまくいかないことに腹をたてる。

寧子が津奈木と出会ったのはコンパだった。どんな話題にもそれなりの受け答えをする、容姿もそれほど冴えない男だったが、ひょんなことからひょんな瞬間に二人の心が交叉して、一緒に暮らすことになった。

そんなある日、津奈木の元カノが寧子の前に現れ津奈木と寄りを戻したいから津奈木の家から出て行けと脅迫する。その嫌がらせは止まらず、引きこもっている寧子に容赦なく嫌がらせをしに毎日のようにマンションまで来て玄関のチャイムを押し続けるという嫌がらせを始める。何もかも面倒くさい寧子は警察に苦情を届けることも厭い、ひたすら我慢するがある日部屋を出たところでその元カノにつかまる。

手をひかれるがまま着いて行ったレストランで寧子は「働く気はあるのか?」と訊かれ「ある」と答えると「じゃあ、ここで働け」と無理やりレストランでバイトをさせられるはめになる。

そのレストランのオーナーとその妻は元ヤンで情に厚い。家族は寧子に優しく接してくれて、寧子は心を開こうとする。しかし、「ウォシュレットって恐いですよね」という発言に「何言ってるの?」という態度をとられ、やはりダメだと思いその場から逃げ出す。

そして、家に帰り津奈木の帰りを待つ。裸で津奈木に不満をぶつける。そこで、どうして自分と付き合おうと思ったのかということを聴かされた寧子のもとに津奈木の元カノが来る。しかし、津奈木は彼女を無視し、寧子と部屋に閉じこもる。そして津奈木は寧子の頭をそっと撫でるのだった。

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寧子が津奈木と交わす会話の中にこんなのがある。

 素っ裸にコート一枚を羽織った格好で煙を吐き出して高速道路を眺めながら、どうしたら説教じゃなくて会話になるんだろう、どうしてこんなに努力してるのにあたしの言葉は誰にも伝わらないんだろう、と考えていたら笑えてきて、なんで笑っているのか分からないという顔で津奈木がこっちを見たので、
「バイト先の人達がすごく優しくていい人達で、一瞬『あ、これはいけるかな』って思ったんだよね」と言った。

先日も書いたが、自分の気持ちというのは相手には完全には伝わらない。なぜなら、本当に伝えたいものは言葉の先にあるから。*1本当に自分の気持ちを伝えたいと思えば思うほどその伝わらなさに苦しむことになる。そして黙る。籠る。自分の内側に向かう言葉。出会う。自分の核に。葛藤する。それは自分なのか?『それは自分のなのか?』と問うているのは誰?本当の自分はどれか?分からなくてどうしようもなくて再び籠る。そこからはその繰り返しだ。

主人公の寧子の気持ちは分かる気がした。『これはいけるかな』と思って話したら拒否されてショックを受けてしまうのが恐いから喋らなくなる。自分の世界にこもる。人間は「自分の世界」を少しでも他者に分かって欲しいと思うものだ。それは止められない。祈ることをやめた人間は既に生きてはいない。そして祈りは永遠に叶わない。*2しかし、「人間は所詮孤独だ」と言ってみたところで少しの時間の慰めにしかならない。いづれ孤独は舞い戻ってくる。そして不安は繰り返す。

だから。だから、「生きてるだけで、愛。」なのだろう。いや、さらには「生きてる"限り"、愛。」なんじゃないだろうか*3。結局彼女を救った(であろう)のが愛だったのは必然なのだ。「生きてるだけで、愛。」だから、「生きてる限り、愛。」なのだ。そうした意味で人々がいつの時代になっても愛について語らうことは重要なことなのではないだろうか。愛とは人間の別称なのかもしれない。

*1:だから、何かを「書く」という行為は基本的にラブレターなのだ。伝わらない自分の気持ちをなんとか言葉にする。そして読者(他者)に伝わったとき、そこに「愛」が生まれる。その行為は「祈り」で、ブログもまさにラブレターであり、僕はこれ(僕の中の何か)が「他者」に伝わるように祈っている。愛は祈りの帰結点なのだ。

*2:まさにゴドーを待つ二人と同じじゃないか。

*3:これは、「生きてるだけで、愛。」の逆向きのベクトル(十分条件に対する必要条件のようなもの)だ