静かな生きづかい。

雪沼とその周辺 (新潮文庫)

雪沼とその周辺 (新潮文庫)

 午前十一時から営業をはじめているのに、客はひとりもあらわれなかった。木曜日はいつもこんな調子だからべつに驚きはしなかったが、夜の九時をまわったところで見切りをつけて、壁面照明の電源をすべて落とした。メンテナンスにやってくる担当者さえめずらしがるコーラの瓶の自販機の、ゲームがおこなわれているときには気にもならない冷却モーターの音がずいぶん大きく聞こえる。夜になるといつもおかしくなるの耳の調子は、まだ大丈夫らしい。それにしても、ビールやジュースを冷やすために熱が必要だなんて滅茶苦茶な理屈だ。冷やせば冷やすほど放熱し、部屋が暑くなる。それを冷やすためにエアコンを入れると、こんどは室外機が熱風を外に吹き出す。暑さは場所を移すだけで消えはしないのだ。このまま仕事をつづけていたら、俺の人生もなにかを冷やすためによけいな熱を出すだけで終わりかねないぞと胃が痛むほど悩んでいた三十代の自分の姿を、しかし彼はもうはっきり思い出すことができなかった。

「スタンス・ドット」

雪沼という架空の町を舞台に繰り広げられる七つの短編が収められた作品。堀江敏幸の作品らしくそこに住む人々の淡々とした生活が描かれるのだが、その淡々と生きる人々に一瞬のスポットライトが当てられ、彼らはほんの少しの間だけ物語の主人公になる。堀江敏幸の作品を読んでいるといつもアキ・カウリスマキの映画を思い出すのだが、この作品はとりわけカウリスマキの映画を髣髴とさせるものだった。物語の中心となる人々は何か特別な才能をもつわけでもなく、寧ろ劣等感を持っているほどだ。「レンガを積む」の蓮根さんは背が低いことをコンプレックスとしており、「ピラニア」の安田さんは料理人なのだが、自分の腕に自信がない。そして人々は皆、都会の時間の流れ、いや、もっと大きな時代の流れに身を任せるのではなく、雪沼という地でそれぞれの時間を生き、そして自分にとっての人生をはっきりと自覚的に、誠実に生きていく。

この作品の中でも川端康成文学賞をとった「スタンス・ドット」という作品は秀逸だ。この物語の主人公である無名のボウリング場主は、あと三十分で二十数年営んだボウリング場を閉じることにしていた。*1そこへトイレを貸してくれと若いカップルが現れる。そこで、ついでに終業までゲームをやらないかと提案をすると、カップルは戸惑いながらもその提案を受けることにする。カップルがボウリングをしている様を見ているうちに彼は様々なことを思い出す。死んだ妻との思い出、ハイオクさんという元プロボウラーとの思い出。ハイオクさんは決してスタンス・ドット*2を変えず、他の人の投げる球がピンをはじくものとは異なる音色を奏でていた。彼はこのハイオクさんの倒すピンの音に魅せられてボウリング場を始めたのだった。しかし、彼の耳は今や補聴器でなんとか聞こえる程度。なにやらカップルは自分に向かって何か言っているようだがよく聞こえない。なんとかして聞き取ると、どうやら最終フレームはどうかご自分で投げてくださいと言っているようだ。これが最後。ハイオクさんのスタンス・ドットを確認して投げたボールはスイートスポットに吸い込まれてゆく。

*1:ここで僕はロバート・アルトマンの『今宵、フィッツジェラルド劇場で』を思い浮かべるのだった。最後の日というのはどんなものであれ特別なのだ。

*2:スタンス・ドットとはボールを構えて立つところについている丸いドットのこと。まっすぐ投げるときの目印になったりする。