私は他人と交わるとき、その人物と「なんとなく」という感覚に基づく相互の理解が得られるか否かを判断し、呼吸があわなかった場合には、おそらくは自分にとって本当に必要な人間ではないとして、徐々に遠ざけてしまうのがつねだった。ながくつきあっている連中と共有しているのは、社会的な地位や利害関係とは縁のない、ちょうど宮沢賢治のホモイが取り逃した貝の火みたいな、それじたい触れることのできない距離を要請するかすかな炎みたいなもので、国籍や年齢や性別には収まらないそうした理解の火はふいに現われ、持続するときは持続し、消えるときは消える。不幸にして消えたあとも、しばらくはそのぬくもりが残る。


熊の敷石 堀江敏幸

ぱっちり目が覚めてから

ゆっくり目を閉じるまで 

どれくらいのものを見て聴いて触って嘗めて匂うのだろう。

世界にまるである、それらのものから感じとられるその不確かながらも確実な何かの源を突き止めようとすれば、それはあっちの世界にあるのではなくて、こっち側の自分の中にあることに気づく。

世界から自分の中、あっち側からこっち側に入ってくる光、それはガラス体を屈折しながら進み、網膜、外側膝状体を経て大脳皮質へと送られる。

世界のテクスチャは自分の身体をインターフェースに、他者のテクスチャも自分という身体をインターフェースに立ち現れてくるのだ。

そういった意味では確かに自己は他者に先行すると言えるかもしれない。

ここに僕がいなければそっちにいる君はもういない。

でも、本当にそうだろうか。

確かに僕がいなければ君はいなくなっちゃうけど、君がいなきゃ僕はここにはいられない。

誰かがそこにいることは誰かがここにいることが必要で、僕がここにいるには君が必要。

そんな危うくて脆い関係。

さよならの後の白いためいき。