届かない距離と反芻する言葉

時々はこうして少しずつ言葉を吐き出さないと頭の中でぐるぐる言葉が自律的に動き始めてまるで生きものみたいやがては死んで腐ってゆくからこうしてまた書き続ける。

かたちのないものは生きものではないのか、そんなことを考えながら訪れた日曜日はアタック25の司会の白髪のおじさんの威勢のよい言葉とともに目が覚めた。平和な日曜日はそういえばこのように始まるのだった。ここのところ日曜日はいつも大学で作業をしていたせいでそんな当たり前のことを忘れていた。ときに人は熱心に、半ば脅迫神経症的に何かをやらなければいけないときがあるが、それを長く続けることは誰をも幸せにはしない。荒んだ心で人に接する際に口から出てくるこの優しさが微塵も感じられないことば。ことばと呼ぶにはいささか醜すぎる。

書かずにはいられない、というのが恐らく結論で、それは僕が学部生のときに何本もの小説を書こうと試みては挫折したということからも伺える。別に楽しくてやっているわけではなくて、それは苦しい作業にもかかわらず日が昇るまで続け、磨り減った神経は胃を痛める。台所を染める黄色い液体を眺めてはオレは何をしているのだろうかと自問自答したのはそう遠くない過去のことだ。

気を抜くと思考は停止するが人に寛容になり、気を張り詰めると思考は展開するが人に不寛容になる。その両極の間で揺さぶられながら生きていくことの理不尽さ。誰にぶつければよいのかわからない怒りはどうやって消化すればよいのか。つまらないことで諍いが、口を噤めばそれでよいのか。ぶつかれば、分かり合えるのか。再び両極から重圧がかかる。僕がいなくなればよいのですか。問題の所在がつかめなくなる。雲をつかむような感覚。浮遊する身体。

耳元から聴こえてくる音楽が僕の心を躍らせる。つられて足取りは軽くなる。いつもと違う道を通る。新鮮な気持ちを覚える。笑顔の人々とすれ違う。抱き合う男女の横を通り過ぎる。空を眺める。きれいな空だ。思わず泣き出しそうになりながら信号が青になったのを確認して横断歩道を渡る。もうすぐあちら側にたどり着くのか、それは分からないけれど、もうずいぶん前に一歩踏み出したのだった。