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電車の中で考えたこと。

一つ目。とても焦っているということ。学べば学ぶほど先は遠くて奥は深い。生きている間にどれくらいのことが理解できてどこまで見渡せるのか、ずっと考えている。『エキゾチックな球面』の最後で野口先生が「私もあなたたちと同じように我々がなぜここに存在しているのか、死後どうなるのかということを追求してきました。その答えが本書でした」というようなことを書かれていて、とても惹かれた。人それぞれ分かり方というのは異なるのだろうけれど、やはり学者たるもの最後まで粘り強く考えなければいけないのだろう。しかしまたあの泥沼に足を踏み込むのはややこわい。


二つ目。時間について。これは一つ目とも関係している。身の回りにあるものを見るにつれて時間を遡って考えるようになった。食べ物ひとつとってもそれらはどれくらい古くから食べられてきたのか、ということについて考える。あるいはテレビやコンピュータについても。これらがなかった頃のことと普及してからのことについて考えることが増えた。コンピュータによる数学的な証明についても昔本をぱらぱら読んでいたけれど、もっと真面目につっこんで考えてみたら深い世界に潜り込めるのではないか。新しい道具と古い道具の使い分けも必要。(こういう観点であれば親族構造にも関心をもてる。つがいの鳩を眺めながら、きっと家族あるいはそれに近い単位はかなり前からあったのだろうな、とか考えていた。でも、何で?)



三つ目も二つ目に関係する。それはそうしたことを考えるためのツールについて。なにかものを考える時には思考の枠組みあるいは何かを分かるための道具(例えば数学や言語)が必要だけれど、何を使えばよいのかということ。あるいは自分に取って何が一番わかりよいのかということ。言葉で書かれているよくわからないものも、数式やグラフで書けば一瞬で理解することが出来ることがある。あるいはつくってしまうということもあるかもしれない。これに関しては器用に使い分けられるとも思えないので、得意な方法で進むしかないのではないか。



四つ目。転ぶこと。転ぶと怪我をしてとても痛い。大学院で研究をしてできた傷のおかげでずいぶんと慣れたけれど、やっぱり痛いものは痛い。受身を取れるほど器用ではないので、何らかの形で支えられなくてはいけない。何が支えるのか?



五つ目。器用さについて。一年ちょっと前にKに電話をして話したときに「お前は出来ることしかやらない」と言われた。「お前は人が出来るようになりたいと思うことを簡単にやっちゃうだろ?」と言われたけれど、分かるような分からないような。出来るようになりたくなるくらいのめり込めるものじゃないと手を出すことはないし努力は続かないし、出来るといっても程度が知れている。他のものにも手を出すようになったのはここ数年のことで、それは単純に他の世界も見てみたくなったから。遠くまで行ってみたいだけ。あるいは刺激がないと辛い。



六つ目。狡さについて。これは五つ目とも関係する。Aと話したときに「いかに楽をするかだよ」と言われた。楽をするのは大切なことだけれど、平坦な道を歩いていると退屈でどんよりした気持ちになるのでちょっと辛い。楽をするよりは楽しみたい。



七つ目。条件について。フェアじゃないことばかりだということはよく理解しなければいけない。どうしたって手持ちの駒で戦うしかなくて、ないものを願ってもしょうがない。資源は限られているけれど、工夫をすれば案外いろんなことができる。珈琲のカスが消臭剤になったりもする。



八つ目。責任について。自分で出来る範囲、あるいは自分でやるべき範囲というのが未だに分からない。誰かに頼るタイミング、人の選び方、信頼。依存しない距離感で協力していくことが難しい。いろいろ本を読んだけれど、やっぱり難しい。まわりの人に、どうやっているのか訊いてみたい。あるいはどうして欲しいと思っているのか。訊かなければ分からないことはとても多いが、簡単に教えてくれるものでもない。



九つ目。自分自身を限定している事柄について。年齢、性別、履歴。他の人々との関係性を考えたときに自分はどの位置を占めるのか。適当な役割というのがあるのかないのか。役割を担ってみることも重要だ、と言われたが、やっぱり難しい。正直イメージがわかなくて好きなようにやってしまう。



十つ目。何を捨てていくのか。これはここ2、3年ずっと考えている。必要なものと欲しいものの区別。迷ったら勘に頼る。選択をしないよりは間違った選択をした方が好ましい。うやむやにすることを放棄するようになってきたのは、結構成長なのではないか。真相が藪の中にあるのであればそこをかき分けるしかない。藪を眺めていても何も出て来ることはない。



10分もあればいろいろなことが考えられる。毎日思考が交錯する。