no title

夜に青山のABCに立ち寄って適当に手に取った本の中で池澤夏樹が「『百年の孤独』の「孤独」というのは「寂しい」ということではなくて、「愛するという能力をもたない」ということだ」というようなことを書いており、思わず考え込んだ。彼の孤独はおそらくどこかで父親と繋がっていて、自分の孤独もどこかで父親の不在に繋がっている。池澤夏樹のその名前の響きの美しさや彼の描く世界観の美しさに惹かれただけではなく、おそらく彼の中の父親の不在あるいはそこからくる孤独と自分の中の孤独がどこかで交わり、どうしても時々彼の文章を読んでしまうのかもしれない、などということをABCを出て宮益坂を降りながらもぶつぶつと頭の中で呟いていた。「寂しさ」はどうにかこうにか紛らわせることが出来るが、「愛するという能力をもたない」ことはどうやったって紛らわすことが出来ない。自分の中でゆっくりと成長した孤独感は年を重ねるごとに心の中で膨張し、あっという間に風穴をあけてしまった。穴を塞ぐために必要なものは手元には見当たらず、探しに向かう場所も覚束なくなってきた。しんとした大学の構内で一人図書室に篭って書物の山と格闘していた頃にはちっともそんな先のことは気にも留めていなかったが、どうやらもうこれは処置を施さないと駄目なようである。


もしかしたら父も自分と同じ感覚で生きているのではないか、ということも考えられる。彼も恐らくとても孤独だったのだろう、孤独だったに違いない、などといくつか推論を重ねてみたけれど、結論には至らなかった。おおよそ自分の考えてきたこの先の未来やあるいは自分なりの真実もしくは他者の心理のようなものは、とうとう何一つ実現せずに可能性として終わってしまうのではないか、と少し不安になってしまう。時間とともに真実は常に変わっていくのかそれとも自分が変わっていくだけなのかは分からないが、少なくとも自分の背の高さ・目線から見える世界より他の世界は見えないのだということはいくらか認めている。せいぜい巨人の肩に乗り遠くを見渡すことが出来たら、と希望をもってはいるが、それももしかしたらもう適わないのではないか、という気がしている。ずいぶんと長い間遠くの方は見えていないが、同時に近くすらも最近は視界がぼやけてよく見えない。もしかしたら立っている場所を変える必要があるのではないか、と思いはするが、なかなか均衡を保てるような場所を見つけることが出来ない。今はひとつひとつを言葉に置き換えていく作業が必要なのかもしれない。そんな風に思ったので、いくつかの言葉の断片をここに書きつけておく。


101023 金曜日の終わり、土曜日の始まりとともに