no title

「昨日やったことを話してやろうか。エドガーの墓を掘っている寺男に、キャシーの棺をどけさせて、蓋をあけてみたんだ。キャシーの顔を見たとき(今もまだ生きている頃のままだったよ)一緒におれも入ろうかと思った。そうしてじっと動かずにいたから、寺男は困っていたが、空気があたると様子が変わってしまうと言う。だからおれは、棺の片側をたたいてゆるめてから土をかけた。エドガーが棺に入るほうの側じゃない。ちくしょう、エドガーなんか、鉛でかためて埋めてやればよかった。それからおれは寺男に金をやって、おれがそこに埋められる時が来たら、今ゆるめた板をはずして、おれの棺の横板もはずすように言いつけたんだ。はずせるように作らせるつもりだからな。そうしておけば、エドガーのやつがこっちにくずれてくる頃には、おれたち二人は一つになって、区別できなくなっているわけさ!」


エミリー・ブロンテ 嵐が丘


雨がしとしとと降る中でぼんやりとする考え事は一つ。キャサリンヒースクリフは結ばれたのだろうか、ということ。五月の頭から読み始めた『嵐が丘』はようやくクライマックスを迎えた。久しぶりに読んだ小説は『百年の孤独』以来の感覚で、古典だとか言うけれどそんなに面白くはないのだろうなという小さな乾いた期待を大いに裏切り、ああこれは、と何度もため息をつく結果となり汗を握った手は未だにしっとりとしている。何度も訪れる過去の出来事のフラッシュバックは本当に巧みで、この作品のみを残した著者のことをもっと知りたいという気持ちになっている。カフェの隣りと後ろで誰々と誰々が付き合ってだとか話している若い女性の話の内容とのギャップがなんとも言えない。彼女たちもいつか夜な夜な歩き回る亡霊のようになってしまうような恋というやつをするのだろうかしないのだろうか、それともする必要なんてないのだろうか。

思い返せば五月の初めに偶然知り合ったかつて詩人だったという年配の女性の口から出て来た作品がこの『嵐が丘』で、そういえば小説をたくさん読んでいた研究室の先輩がしきりにこの作品のことを口に出していたなあと思い返して本屋で購入してから連休中に読み始めたのだった。「ヒースクリフがね…」と化粧をなおしながら口にする姿は下北沢の小さな飲み屋の暗い照明の下でなんとも艶っぽく、居合わせた人々は皆、お世辞ではなく本当にお若いですねと何度も口にしたのだった。彼女の話によると、歳というのは否応なく取ってしまうが、あまり重要ではないらしい。要は気持ちの問題だという言葉はこれからも憶えておきたい。

話は戻ってキャサリンヒースクリフ。最近はこういう小説を読むと友人たちのことを思い浮かべることが多くなった。M君は紆余曲折を経てとてもよい人と出会ったようだし、Kは先日「結婚するぜ」と電話してきたし、なんだか自分は相変わらず落ち着きがないなあとぼんやりすることがままある。それでも20代の前半のときのような慌しさや落ち着きのなさは随分と消え去ってしまったように思われるけれど。これは、あれもこれもと分別なく手をつけるのではなくて、一つ一つを慎重に大切に選択するようになったからだろう。一つの選択は複数の選択の犠牲の上に成り立っているのではなくて、一つの意志の上に存しているのではないだろうか。意志のない選択こそが落ち着きのなさや無分別を生むのではないか、なんて年寄りじみたことを最近はつらつらと考えている。M君もKも、そうした意志の上で行った選択であってほしいし、彼らには是非とも幸せになってほしい。なんだか他人の幸せを祈ってばかりでは詮無いので、出来れば自分も幸せになれればなおよい。そんな少しだけ欲張りなところも歳を取ってから身についたものなのだけれど、本人は割とそういう態度を気に入っていたりする。そう、気に入っていたりするのである。