波状言論S改 / 東浩紀, 北田暁大, 宮台真司, 大澤真幸, 鈴木謙介
学ぶべきことの多い読書というより、久々に考えさせられる読書でした。
全体に言及するにはあまりに話題広範にわたりすぎているので、個人的に気になった部分のみ抜粋してみます。
p194からp201までに「感動はメタゲームを止める」という項があります。因みに東浩紀さん、北田暁大さん、鈴木謙介の鼎談です。この話題以前は非常にアカデミックで抽象的な話題が続いており、この項でかなりアクチュアルな話題に転回されるという箇所です。
ここで問題になってくるのは、2ちゃんねるのFLASHが「感動もの」になっていった。そしてれが動員の論理としてひとつの引き金になっている、ということです。
そして、『未来日記』の話になります。ここで、鈴木さんが提起するのは、「嘘だとわかっている恋なのに参入しようとしている。動員されることがわかっていて動員されにきている。こいつらは何なのだ」と。
それに対して東さん。
東「いま人々が求めているのは、自分を包んでくれる大きな枠組み=物語というより、思考や解釈のメタゲームを止めてくれる特効薬なのではないか。この薬を飲めば、・・・気持ちよくなれるということがわかっている。・・・けれども人々はそれにハマっていく。そしてこれがなければ社会生活が維持できなくなっていく。これはまさにアディクションの構図です。・・・恋愛がしたいんじゃない。相手はだれでもいいんだから。彼らが一義的に求めているのは、恋愛ができるかどうか、という懐疑が止まることですよ。・・・「感動」と「洗脳」は一見対立するように見えるけど、僕は内実はほとんど同じだと思うんです。」
鈴木「どちらも思考を停止させるもの、メタゲームを止めるものだからですか?」
東「そうです。「感動」をほかのコミュニケーションから区別する特徴は、反駁可能性だと思うんです。・・・動物的に「いや、おれ感動しなかったし」になると反駁不可能。話にならん(笑)」
東「・・・「泣けなかった」は、「面白くなかった」とはまた別ものなんです。反駁不可能な言表、・・・身体的な体験としてある。・・いまの消費者は、文化産物に対してそういうものを強く求めている。なぜそうなったかと言えば、僕たちの生きているこの社会があまりにメタメタで(笑)、「これがおもしろい」と言ったところで・・・多数の反駁可能性に満ちているからです。だからこそ、そういうノイズをシャットアウトしてくれるものを求めざるをえなくなっている。そこで台頭してくるのが「感動」だと思います。」
なるほど、現代の人々はメタメタ化された(笑)世界から脱却すべく(というよりは、「動物化」されているがゆえに耐え切れず??)、「感動」という呼び声に導かれ、あらたなユートピアを捜し求めているということでしょうか(ユートピアってことは、「存在しない」ってことですね)。なんか、ノアの箱舟みたいw
なんでココに注目してかっていうと、以前こんなブログを書いていたからです
ここで僕が言いたかったことを、まさに東さんが代弁してくれていたからです。やはり僕が感じていた違和感は、現代社会のいたるところに現れているようです。
完全に人々はアディクティッドされてますね。
完全に思考停止状態です。
昨日の日記の言葉を借りれば、「機械的人間」です。
もしこれを「動物化」と呼ぶのなら、まさに現代の人々は「動物化」されている(もしくは勝手に・自発的に自らをしている)のではないでしょうか。
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あらすじ
大学生の恒夫は、乳母車に乗って祖母と散歩するのが日課の自称・ジョゼこと、くみ子と知り合う。くみ子は足が悪いというハンディキャップを背負っていたが、自分の世界を持つユーモラスで知的な女の子だった。そんな彼女に恒夫はどんどん引かれていき、くみ子も心を許すが、ふたりの関係は永遠ではなかった。 amazonより
何を隠そう僕の叔母は身障者。
叔父も。
でも、うちの婆ちゃんはこの映画に出てくる婆ちゃんみたいに「この子は壊れ物だ」みたいな態度をとっているのを見たことはないな。
僕も別に叔父や叔母が身障者であることを気にしたことはないし。
やっぱ、障害ってのは、社会に存在してるんじゃなくて、社会が作り上げてるような気がする。
社会に生きている人々が。
ジョゼの「自由」に憧れる姿が非常に印象的だ。
僕は「障害は社会によってつくられてる」って簡単に言うけど、本当はそんな一言で済まされるものではないんだろうな。
それが、この映画が語っていることである気がする。
これを見ると、なんとなくベタな「恋」をしてみたくなる映画だ。