ミリオンダラー・ベイビー / クリント・イーストウッド
- 出版社/メーカー: ポニーキャニオン
- 発売日: 2005/10/28
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なんとなく、[ミリオンダラー・ベイビー」を観てみました。
井筒監督(すごい、一発変換!!)が、絶賛してた(気がする)ので、期待大でした。
あらすじはこんな感じ。
ロサンジェルスのダウンタウンにある小さなボクシング・ジムを営む老トレーナー、フランキー。その指導力に疑いのない彼だったが、選手を大切に育てるあまり、成功を急ぐ優秀なボクサーは彼のもとを去ってしまう。そんなある日、31歳になる女性マギーがジムの門を叩き、フランキーに弟子入りを志願する。13歳の時からウェイトレスで生計を立てるなど不遇の人生を送ってきた彼女は、唯一誇れるボクシングの才能に最後の望みを託したのだった。ところが、そんなマギーの必死な思いにも、頑固なフランキーは、“女性ボクサーは取らない”のひと言ですげなく追い返してしまう。それでも諦めずジムに通い、ひとり黙々と練習を続けるマギー。フランキーの唯一の親友スクラップはそんなマギーの素質と根性を見抜き、目をかける。やがてマギーの執念が勝ち、フランキーはついにトレーナーを引き受けるのだが…。
うーん、正直イマイチでした。
というのも、ありきたりな設定で、ありきたりな結末だったからです。
まぁ、こういう意見もあるようですが。
何がうまいって、こういう使い古された設定を飽きることなく見させる演出がもう絶品である。各々のシーンが、こういうふうに撮るしかないと思えるカメラと演出で淡々と紡がれていく。リズム、アングル、カメラ・ワーク、こういうのを演出というんだろうなあという的確さで繋いでいく様は、見事というしかない。惚れ惚れしてしまう。イーストウッドの頭の中では、どこをどう撮ればどういうふうに見えるということが頭の中できちんと計算されているんだろう。ヘンな話だが、イーストウッド映画を頭の中で思い返して一番印象が似ているのは、ヒッチコック映画である。彼らは何をどう撮ればいいということが最初からわかっている。彼らの映画は演出の映画なのだ。イーストウッドの場合、さらにただの演出の映画ではなく、エモーションもまたきちりと押さえているところが他と一線を画している。
なるほど、「技術的な面を見ろ」と。
いや、わからないでもないんですがね。
小津安次郎の映画の時も「カメラのアングルが絶妙」みたいなことが書かれてました。
でも、僕にはイマイチ分からないんですよね。
映画って、技術で勝負なんですかね?
個人的には、内容で勝負してほしいです。
記号論風にいうと、
「シニフィエに注目せい」
みたいな。
勿論、映像の撮り方によって、内容に厚みが出てくることもあるんでしょうけどね。
しかしながら、この映画を観て何も思わなかったわけではないです。
僕にとって重要な「家族とは?」というテーマを思い起こしました。
主人公のマギーには、超デブの母親と、服役中の弟、赤ん坊を育てる妹がいるんですが、まぁ、マギーのことを家族としてみてないわけですよ。
マギーが全身麻痺になったときには、財産目当ての契約書を書かせようとしたりして。
一方で、イーストウッド演ずるフランクは、彼女に献身する。
毎日、看病をしに来るわけです。
さてさて、「どっちが家族なんじゃい?」、と。
唐突ですが・・
なんで、アリの中には、女王アリと働きアリがいるか知ってます?
これ、遺伝子を軸に考えると、見事に説明できるんです。
ここでは、東大の松本忠夫先生の研究紹介から引用させていただきます。
昆虫の社会性進化の理論では,Hamilton(1964)の「血縁選択説」がもっとも有名である。ミツバチ,アリ,スズメバチなどの社会性の膜翅目昆虫においては,雄が単数体(一倍体)であり,雌が二倍数体の「単・二倍数性」である。そこで,この説では母娘間よりも姉妹間(娘どうし)の方が,血縁度が高くなるので(1/2 に対して3/4),不妊カーストが出現しやすかったのだと説明する。つまり,自らの子供を持つよりも妹の世話をする個体であるワーカーが進化しやすかったというのである。これはいわゆる「4分の3 仮説」といわれているものである。この血縁選択説では,利他行動は「包括適応度」の上昇の戦略と理解できる。包括適応度とは,ある個体のそれ自身の適応度に,直接の子孫以外の近親の適応度に対するその個体が与える影響を加えたもの,すなわち,ある個体に関した血縁選択の全影響である。
この話を、「進化学」の授業で初めて聞いたときは、目から鱗が落ちる気持ちでした。
まぁ、この文章の続きにこんなことも書いてありますが。
しかし,シロアリ類に対しては,この説は適用できない。なぜなら,シロアリにおいてはワーカーや兵隊には雌雄の両方がいて,その雌雄ともに二倍体であるからである。したがって親子間とシブ(兄弟姉妹)間の血縁度はいずれも1/2 であり,膜翅目でみられるような血縁度の不均衡を社会進化の要因にするわけにはいかない。
まぁ、理論ってこんなもん(例外が次々と見つかる)です。
だから、面白いw
話は戻って、「家族って何?」ということを考えましょう。
僕が言いたいのは、
「家族って、血が繋がってるってだけなのか?」
ということです。
以前、伊坂幸太郎『グラスホッパー』を読んだときの感想に僕はこんなことを書いています・
だって、彼ら「劇団」員は「家族らしく」振舞っていただけなのに、一般人の鈴木には本当の家族に見えたわけです。
つまりは、赤の他人でも、「家族らしく」はあれるということです。
つまり、「家族」を「家族」たらしめているのは「家族らしさ」ではないということに気付かなければならないのではないでしょうか?
僕の個人的な意見としては、「家族」なんてものは「存在」しておらず、僕らはみな「他人」なんだということです(非難されそう・・・)。
でも、僕は家庭内暴力なんて、まさにそこらへんにも問題があるような気がしてならないわけです。
「家族」という「存在」していないものを自ら「所有」している気になって、その家族の構成員にたいして「自分の所有物なんだから」という理由で暴力を振るう。
もし、家族の構成員が「他人」なんだという意識があれば、そんなこともないでしょう。
まぁ、「他人」と言ってしまうとなんだか悲しいのですが、せめて、特別な「所有」物である(絶対的存在)であるという風に考えるのはいかがなものかと思うわけです。
ただし、今読んで思ったのは、「家族」を「家族」たらしめているのは、まさに「家族らしさ」なんじゃないかな、って思います。
茂木さん(茂木健一郎)風に言うと、「家族らしさ」という志向的クオリアによるものとでも言ったらよいのでしょうか?
なるほど、志向性を入れて考えたら、「家族」を「家族」たらしめているものが、血縁でもなけりゃ、法律でもないってことがうまく説明できそうですね。
よって、マギーの家族はデブのおばさんや刺青ニイチャンではなく、フランクだったということです。
ただ、ひとつどうしても気がかりなことがあるんです。
時々、両親に捨てられた子供がテレビで捨てた母親や父親に、
「それでも、あんたは親だから・・」
とかいって、許しちゃうんですよね。
何でなんでしょうか?
やっぱ、血が繋がっていたら、家族なんですかねぇ・・?
個人的な見解を述べさせていただいて、話を締めようと思います。
まず一つ。
彼らは、どうしても「希望」を捨てきれないからではないか?
どんなに親に絶望を感じても、心のどこかで「いや、あいつは自分の親だから・・」と、自分の中の理想的な「家族像」の実現に期待を抱いているのかもしれません。
それほど、人は愛に飢えているのかもしれません。
で、もう一つ。
今まさにココで生きていて、そして、いつか死ぬ「自分」という存在を積極的に肯定してくれる唯一の人間・存在(生まれてきたその瞬間を知っているのはまさに母親であるから)から脱却することの恐怖を感じているのではないか?
「自分」が「自分」であることの公理系のひとつである「自分は、かの母親から生まれた」という公理が失われてしまい、自己を保つことができなってしまうことへの抵抗かもしれないとうことです。
もしくは、やはりただ血が繋がっているということだけで、本能的に家族(親)を求めるものなのかもしれません。