教育と私
こんなニュースがあった。一部省略。
「国を大切にする」などの「愛国心」表記を通知表の評価項目に盛り込んでいる公立小学校が埼玉県で52校に上り、岩手、茨城、愛知県にもあることが毎日新聞の全国調査で分かった。教育基本法改正案を巡る国会審議で、小泉純一郎首相は「愛国心があるかどうか、そんな評価は必要ない」と答弁したが、学校現場は既に評価へ踏み出し、全国に広がる気配だ。【まとめ・井上英介、高山純二、高本耕太】
*以下、やや挑発的な書き方になっていることをお許しください。
僕はこのブログで政治的な発言は控えたいのですが、これは黙って見過ごすわけにはいかない。
しかし、一体何がこんなバカみたいな評価を導入させる力となっているのだろうか?
僕には、「愛国心」という名の下に団結したがっている(若しくはさせたがっている)ように思えて仕方がない。
何も団結することがいけないだなんて言いはしないが、ここに「愛国心」を持ってくることほど歴史性を無視した方法はないだろう。
特に小学校で採用される傾向が高いのは、「学級崩壊」「不登校」「いじめ」といった問題に対する特効薬としての「愛国心」に味をしめたからか?
そういうのは、「挨拶運動」でやめときなさい。
で、問題なのは「愛国心」を「評価」するところだ。
これは、現代にあふれかえるおバカな学生が知らすしらずのうちに「愛国者」になることを意味している(勿論、必ずしも「愛国者」が悪いわけではない)。
つまり、「愛国心」に対する「評価」が「評価」のための「愛国心」といった倒錯を起こすということだ。
これは、「評価」や「成績」ばかり気にしているバカ学生たちをコントロールするにはもってこいだ。
バカ真面目な学生にはその効果は想像するに余りある。
別に誰もが思っていることなのかもしれないが、「愛国心」というのは自発的に生じるものだ。
しかも、それは「評価」するものではない。
先に、「評価」や「成績」ばかり気にしている学生をバカ呼ばわりしたが、良い「評価」を得ようとする気持ち・態度は非常に健康的なもので、僕はそれを批判したいわけではない。
ただ、自分の態度に対してあまりに盲目的な人間をバカ扱いしただけだ。
昨日の話ではないが、「評価」というのは「測る」ということで、それは(その人の能力が)「分かる」ことではないのだ。
大事なのは、「分かる」ことだ。
いい「成績」をとることより、内容が「分かる」ことが重要だ。
「愛国心」の「評価」が良かったからといって、「愛国心」が芽生えているかといったら全くそんなわけはなくて、悪かったからといって、芽生えていないものでもない。
それは統計的に成り立つことを経験論的に「知っている」だけだ。
「分かっている」のではない。
僕は、「愛国心」教育によって、そこらへんをきちんと理解していない人間が「国」(想像の共同体)に自己アイデンティティを投影してしまうのでないかと危惧しているのだ。(歴史の反復)
そのアイデンティティはやがて膨張し、排他的なものになるのではないかということを危惧しているのだ。
「愛国心」を「評価」しようとしている学校現場のオジサン・オバサンたち、「測る」ことと「分かる」ことは違うんだよ。