文理の壁、他者との溝
今日は朝から言語処理系の試験。
眠い眠いとか思いながらプラプラ大学へ。
そのあとなんやらセミナーへ。
郡司さんが話してて、なんだか知らないけどいつものように元気がなくて、僕もプラプラ聞いていた。
眠い眠いとか思うけど、真面目に聞く。
しかしながら、正直だんだん懐疑的になってきたのも事実。
いつまで経っても質量性は出てこないというか、それじゃあやっぱサイエンスではないような気もする。
当然ながら、しかしながらそうした問題を考えること自体はすごく重要で、でもこれもまた不良設定問題なのかもしれないとかも思う。
つまりは、いつまで経っても何も出てこなくて終わるという。
もちろん還元主義者みたいに何かに還元させるという方法も取れないのだろうけど。
じゃあ
どうするかってのが重要で、もしかしたら質量性なんかを持ってくる必要なんて全然なくて実は互いに対立しているものの「お互い性」を「差異」を認めようという積極的な態度がむしろ必要だったりするのかもしれない。
つまりは、二つの相反するものがあったときにそれのどちらも認めるという。
で、問題なのは違った視点が二つのものを見ているから生じるのであって、でもそれをひとつにするべくなんか第三者を持ってくるというのは実は違ってて、それはただ単に第一人者が見ればいいんじゃないか。
具体的にいえば、文理融合とか文理協力とか実はすげーチャンチャラおかしくって、それはパーソナルなものでしかありえないような気がする。
だから、立花隆は一人でやっていて、文理融合とか文理協力とかいわずにただひたすら一人で突き進んでいるのかもしれない。
それは孤高のジャーナリスト立花隆なのではなくて、ジャーナリスト立花隆は孤高でしかあり得らないということなのではないか。
だから、もうそろそろ学際とか文理融合とかなんだか無理に融合しようという試みはやめて、パーソナルな学際化、つまりは「教養」(東京大学の目の付け所はやはりすばらしいのであるが)を大事にしていくという方向に舵を取ることを覚えるべき時期が来ているような気がする。