ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね / 岡崎京子

ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね

ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね

多くの人々が復活を待ち望んでいる岡崎京子さん。

本当に素敵な文章を書く人。

 いま目の前にいる君は、気取り屋の貧弱なアニメの鳥みたいだ。落ちつきなく首をぐらぐらぐるぐるっせてさ。笑えるよ。滑稽だね。泣いているの?悲劇の女優さん。ぼくは泣けないね。むしろ笑っちゃうよ。拙い芝居だね。ばかばかしい。この煙草を一本吸ったらぼくは帰るよ。そしたら君はそれこそ平和になるでしょう。ああ。そうだ。もうちょっとだから我慢をして少し聞いて。この街のこの地帯は百年前はねっとりとした沼地で人間よりかわうその数のほうが多かったんだ。だから?といわれても困るけど、コンビニエンスストアや駐車場や自転車置場や道路がかつてそんな水びたしの場所だったと思うと奇妙な気分にならないかい?そんな話を聞いていたので今日この部屋にくるまで足がずぶずぶ沈んでいくような気がしたよ。百億万年前はきっとここは海の底だ。つまらなそうだね、こんな話。もうお終いにするけど、つまりこういうこと。風景や歴史や世界のほうがぼくらよりずっと忘れっぽいということ。百年後のこの場所には君もぼくももういない。ぼくたちは世界に忘れ去られているんだ。それって納得できる?



岡崎京子「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」

世界は記憶を持たない。

あたかも記憶をもっているかのような痕跡をぼくたちに見せつけるが、それは僕らが「解釈」を行った帰結であって意味は縮退している。

百年後に世界から忘れられているだろう僕らは、それでも「いま」「この世界」での存在として時間の中を生き続ける。

「ここ」が百年後に海の底だって、山のてっぺんだって構わないさ。

納得?

そんなものする必要があるの?

「ここ」に「いま」いること。

このことに対しては世界の記憶だって、僕らの記憶だって、きっと無力なんだ。

ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうけれども、きっとそれでもいいんだと思う。

君の名前も、あの日の約束も、全部忘れてしまっても

「いま」「ここ」に世界を感じているのだから。