第6回LAC国際シンポジウム

行ってきました。

相変わらず自分には不適な場所なんではないかと感じさせられる気品あふれた会場の雰囲気の中、熱心に話を聴いてきました。

で、結局「ベケットを読むことが全てだ」という話。

なんだ、仏蘭西文学案外分かりやすいじゃないか。

で、トゥーサンが初めにひたすらベケットについて語ってました。

ベケットの作品の中では我々は非歴史的時間・時間のない世界にいて、それゆえに全てが死んでいる。それは意識の内部に入り込み、「際限のない不自由さ」にとらわれ、そしてその世界の中では全てが交換可能なのだ。したがって、その中ではたった一人の話者がいるだけで、他者は表象に過ぎない。具体的には、モロイは続けなければならない(たとえ、それが何かを分からなくても)し、「名づけえぬもの」には全て名づけてしまわなければならない。(先にあった、「世界の中における交換可能性」のことでしょう)しかし、ベケットフロベール的「無」には警戒していた(絶対的・孤独な「無」を拒否し、言語の彼方に存在する可能性にかけているとでもいうことでしょうか)。ベケットの作品においては言語の彼方には著者がいて、孤独があって、声があるのだ。


簡単なまとめ

でも、僕がベケットを読むのはたしかにそういう部分に注目しているからで、そもそも僕は「生」というのはかなりどうしようもない状態に名づけられた曖昧なものであって、我々はまさに「際限のない不自由さ」の中で「生き続ける」(同時にいつでも「死んでいる」と名づけることが可能)しかないということを強いられている意味においてベケットはその「生の矛盾・不条理」を描いている気がします。(「物語」が始まらない。これはトゥーサンの『浴室』において循環的にストーリーが「終わる」(同時に「始まる」とも言える)という構図にも見られますが)(哲学の領域では「生きながらにして必ず死ななければならない」という矛盾(というより不条理)を問題にすることは多々ありますね。)「生きる」ということは非常に矛盾した状態であると言うことができるのではないでしょうか。それを僕は「自己言及性」や「二項対立」的な図式(AとAでないものによる分類による認識)による弊害だと勝手に思っていますが、このことは少なからず我々が「生き続けること(同時に死に続ける)しか出来ない」ことと関わっているのではないでしょうか。

すこし、僕の個人的な話になりましたが、そんな感じですかね。あとは23歳のときにトゥーサンがベケットの作品に会って衝撃的だったという話がありました。

それに関連して後から堀江敏幸さんが大学の生協で平積みになっていたアラン・ロブ=グリエの『ジン』を買ったときのエピソードを面白おかしく語ったり、それも仏文科に進んでしまったからで全然ロマンチックな出会いでもなんでもなかったとか、仏文科だからってフランス語で文献読むとは限らなくて翻訳出てない作品はこの世に存在しなかったことにするんです、とか堀江さんが舌好調で、非常にユーモアに溢れた方で会場も非常に盛り上がってました。面白い人だなあ。しかも、見た目すごく若い。実際にもまだ若いけど。

うーん、ロブ=グリエとか読んでみてもいいのかな。

そうそう、ヌーヴォー・ロマンとか別に新しくないとか言っておきながら、結局新しいものはなんでもヌーヴォー・ロマンとして読めてしまうとかいう話で締められていましたが、なるほど、だから結局ベケットなのですね。ヌーヴォーロマンであるということは同時にヌーヴォーロマンではないことでもある。ただ、ヌーヴォー・ロマンでありつづけることでしかありえないのだ。そんな感じなんですかね。ちょっと、オートポイエティックだなあ。物語の中で閉じた環をなしているということは、やはり物語は「生きている」のかも知れないですね。(ただし、おそらくそれを記述しようとした瞬間にそれは「死んでいる」ことが可能になるのですが)