いつか王子駅で / 堀江敏幸

いつか王子駅で (新潮文庫)

いつか王子駅で (新潮文庫)

背中に昇り龍を背負う印鑑職人の正吉さんと、偶然に知り合った時間給講師の私。大切な人に印鑑を届けるといったきり姿を消した正吉さんと、私が最後に言葉を交わした居酒屋には、土産のカステラの箱が置き忘れたままになっていた…。古書、童話、そして昭和の名馬たち。時のはざまに埋もれた愛すべき光景を回想しながら、路面電車の走る下町の生活を情感込めて描く長編小説。

(ネタばれしてます)(ネタというほどのネタなどこの作品には存在しませんが笑)

参った。堀江敏幸が好きだと公言憚らないにも関わらず『熊の敷石』やどこかの雑誌に投稿している文章くらいしか読んだことがなかったのですが、今回も全く期待を裏切ることもなく素晴らしい作品でありました。

恐らく、この物語のキーワードは「待つこと」、「待機すること」(「待つこと」には明確な目標へ向かう力(意志)がなく、「待機すること」はそれがある)と「走る」ことで、ずっと「待つこと」ばかりであった主人公の「私」は物語中で正吉さんを初めは「待機」し、やがて「待つ」ことにする*1。一方で、物語に出てくる馬はみな華麗に緑の芝生の上を「走り」、そして大家さんの娘の咲ちゃんも「走る」。

「私」は、一人で乗った観覧車のゴンドラの中で次のような考えごとをする。

もし目の前の席に座ってゴンドラを平衡に戻してくれるひとがいるとしたらそれは誰だろうとも考えていた。

そこで、「私」は、雨に濡れた「私」に手拭いを貸してくれた女将さんと咲ちゃんのことを思い浮かべ、大切な人は誰なのかということを考える。

そして、咲ちゃんの陸上記録会と女将さんとの王子駅での約束の時間が重なった日曜日に「私」は陸上記録会へ向かう。その記録会の会場に着くまで「私」は女将さんと会う約束の王子駅のことを考えていたのだが、結局、トラックの上で優雅に、余裕を持った「走り」を見せる咲ちゃんを、まるで史上最強の牝馬テスコガビー阪神競馬場で応援するかのように応援する。その「私」は既に「待つこと」も「待機すること」もしておらず、「走り出した」(完了形)と言えるのではないだろうか。(その前に自転車ですでに「走り出している」(進行形)ということが勿論言えるのだけど)*2その走り出した「私」のその後は別の作品に委ねられた。

(追記)

ベケットと堀江さんってのいうのはフランス文学やってる人だから当たり前と言えば当たり前ですがなんか因縁深くて(笑)、以前トゥーサンが来たときのシンポジウムの感想でベケットと堀江さんが登場しているので、お暇でしたら読んでみてください。

=> http://d.hatena.ne.jp/boy-smith/20061127/1164636267

*1:正吉さんは決して途中で物語から消えたのではなく、まるで『ゴドーを待ちながら』のゴドーのごとく「不在して」、かつ「存在して」いる。また、初めは正吉さんが帰って来ることを期待して忘れ物と一緒に「待機している」のだけれど、途中から「私」は正吉さんを「待って」いる。

*2:また、この「走り」出すことが、『ゴドーを待ちながら』のウラジミールともエストラゴンとも違うところであり、そしてそのことが「私」にとっては重要で、この物語はその「私」が「走り」出すまでの様子、つまりはまるでスタートのピストルが鳴らされる前の陸上選手(とりわけ、咲ちゃんがイメージされる)の準備運動の様子を描いた作品なのではないだろうか。それが「待機」ではないのはなぜかというと、咲ちゃんは勝って一位になるためにというような明確な目標があって走っているのではなく、それゆえ彼女はあくまでもスタートを「待っている」と言うことができるからだ。