左へカーブを曲がると光る海が見えてくる。

どうも昨日久々に小沢健二の「さよならなんて云えないよ」を聴いていたら結局自分が以前口を滑らして言ってしまった文学のある音楽ってのはこれのことなのかもしれないとかふと思ったのだけど、でもだからオザワケンジが好きなのではなくてただ単純に彼のあの浮かれっぷりとそのあとに訪れるどことなく切ない感じが好きなわけで。

「おやすみなさい、子猫ちゃん」なんて発言が許される男なんてそうそういないし、でもそれを言っちゃうところがやはりいいなあ、と思う。ところがそんなオザワ君が途中の作品から「彼女」(三人称を表す代名詞の彼女)もしくは「他者」の不在を歌い始めたのは何でだろうとか思うわけだけど、でも、まあ、結構分かる気がして、僕はどれだけ愛を歌ったところで届かない他者に気づいたからだと思うわけで、ああ、村上春樹の作品を読んでいる(聴いている)気分だなあ、と思う*1。気取った台詞を吐いたりカッコつけてバーでお酒を飲んだりするのだけど、『何だろうこの「不在感」は?』みたいなことを感じるわけです*2。感じないですか?そうですか、感じないですか。まあ、村上春樹の作品の好き嫌いはここらへんが関わってくるのではないかと思います。あの「不在感」(またの名を底のない、フラットな絶望)を感じたことのない人には最高につまらない作品なのだと思います。個人的には、村上春樹の作品に共感できない人の方が幸せな人生を送れるのだろうなあ、とは思いますが(笑)うらやましい。

みたいなことを考えながらゆっくり終りに近づく今日。朝からサカムラケンのユビキタスな授業を聴いたあとにホンゴーに行ってニシガキ先生の授業を受けた。相変わらずニシガキ先生の授業は面白い。すげー学者だなあ、とか思いつつ一方的な授業ではなくてもっと議論をしたいなあ、と思う。いまや授業なんて受ける必要ないなあ、と思う今日この頃。議論したり勉強会した方が効率がいいし勉強になる。思考を積み重ねて吐き出さないと。授業後に人文社会系研究科で哲学を専攻してる人と話していたら「学者になるべきですよ」という言葉を頂いて大変嬉しかった。サイエンスと文学の両方が重要だという話も「面白い」と言ってもらった。茂木さんとか郡司さんのことも知っていたから、いやー、ああいう人たちやニシガキ先生みたいな境界人なのですよー、という話で盛り上がった。まあ、アカポスはキビしいかもですね、ということで意見が一致。苦労しそうだなあ。まあ、隅っこの方で細々生きていければそれでいいけど。でも、でかいことやんないとつまんないなー。まあ、機が熟すまで待たねば。いや、でもそろそろか。やろう。

という感じで久々に今日は独り言が過ぎました。K村先生と「ネットにおける自己」の研究をやりたいなあ、と思う今日この頃。そろそろ書くもの書いて出すか。

ということで、相変わらず90年代の呪縛から抜け出せないためにこの時代に相変わらずオザワくんやらピチカート・ファイブやらカヒミ・カリィやらを聴いたりしてるわけですが、そうだ、先日話題になったというか僕がいつも言っている「女の子女の子した女の子」の一例としてオリーブ少女を挙げるのを忘れていました。今日00年代においては文化系女子のことなんでしょうかね。サブカル論詳しくないので嘘かもしれませんが。宮台色々読んでみます。時間があれば。

Kahimi Karie - Elastic Girl

Pizzicato Five - Darlin' of Discotheque

シブヤ系ですなー。シブヤねえ。この時代に東京にいたかったなあ・・。

*1:別にこのことは彼が柴田元幸のゼミの出身であることとは関係ない気がするけど。

*2:この「不在感」に形を与えられた人は感じないのでしょうが。たとえば、お金で何かを買うことで満足したり、人から認められることで優越感に浸ったりすることで「不在」の隠蔽を行えばいいでしょう。