ふれるとこわれる。

最近ハラスメントに関する本を読んでいて、なるほどなあ、と思わせてくれる箇所が結構あるのだけど、著者はコミュニケーションには常にハラスメントが忍び込んでいるということを主張しており、その例として例えばあなたが「悲しい」という気持ちが自然と湧いてきて、それに対して母親が「あなたは××できなくて悲しいのね」という風にあなたの気持ちにラベルづけをすることはこれもう既にハラスメントであり相手の気持ちを無視した言動であり愛がないと主張しているのだけど、そうだよなあ、としみじみと思う。僕は比較的コミュニケーションが苦手な方だから(周りからはそうは見られないけど、心の中では随分葛藤している。程度の差こそあれ人はみなこのようなことに悩むわけではあるけど)、なんだかその通りだなあ、と妙に納得してしまった。悩んでいる人に対して「あなたはこれこれのことが原因で悩んでいるのですね」というラベルづけをすることは相手に対する愛のないことだと思う。「こんな感じかな?」「これとは違う?」という風に相手の気持ちを分かろうとすることこそ愛のある行為なのだと思う。こうした文脈において、「他者には理解されない感じ」みたいなものは大切にされるべきなはずなのだけど、世の中は相手のつけたいラベルに沿うような表現が重要視されていて、みんなが納得できるようなことを言う人が「頭がいい」人とされるから、困ったものだなあ、と思う。何も考えていない人の「わけ分かんない」発言とすごく悩んだ人の「わけ分かんない」発言がごちゃまぜになることがたびたびあるからだろうか、「わけ分かんない」感じが世の中では無視されており、悲しいなあ、と思う。コミュニケーションというのは本来成り立たないものである(東、もしくはデリダ風に言うと「郵便的誤配」)はずなのに、どうも世の中の人々はそれに気づいていないのかわざと無視を決め込んでいるのか、一向に事態が改善される様子が見られない。ニシガキ先生の新著にもそのことが主張されていた。コミュニケーション論の基本的なことは知らないうちに他者にハラスメントをかけないようにするためにも現代人には必須の教養なのである。

ということで、愛のあるコミュケーションというのは僕は大好きで、理由も添えられずただ「なんだか日記読むと元気が出る(頑張れる)」ということを言ってもらえたのは非常に嬉しかったなあ、ということ。

なにはともあれそんなことを考えながらも午後からずっと研究室に籠って論文読みながら資料を作っていたのだけど、なんだか誰からも咎められずに自由に研究できるというのは幸せだなあ、と思う。今の環境は周りに僕の好きな学者・先生がたくさんいて、ひょっこり顔を出してあれこれ議論することができたりして、嬉しい。僕の周りにいるそうしたセンセイたちは何気にすごい人ばっかで、うちのボス(さらにはボスの友人のモギさんやグンジさんも含めて)は間違いなく今現在学問の世界で最も面白い人の一人だと思っているわけだけど、これからの学問の世界を最も面白くするであろう若者の一人は僕だと一人で勝手に思ってる(とゆーか確信している)から*1、そろそろ結果なのである。ケッカ、ケッカ。ケッカを出さなきゃ変わらない。

ということで、明日も日曜返上で研究室でお勉強になりそうです(笑)ケッカが出るまでは何度倒れても走り続けるということで。ホンモノは努力なくして得られないのである。まだまだ。

*1:若いうちはナマイキなくらいが丁度いいと思うし、ナマイキな人が僕は好きです笑