I still don't know you.

宙に散り散りになっていた思考と言葉がだいぶ収斂したからなんとかうまく書けるかな。

思いのほかべったりとした感情は対象から引き離すことに痛みを伴い、引き離すことを拒む身体と心がうまく調和して働き始めるのまでにはいつも時間がかかってしまうようで、何はともあれ数日間の記憶はなく、本当に何をしていたのだろう疑問だ。

疑問ではあるけれど風が強かったし雨が降っていたし台風が通り過ぎていったらしいことくらいは覚えていて、ずっと頭の中でいろいろと考えていたから身体的な記憶はほとんどなくて観念的な記憶だけが残っており、発した言葉とか聴いた言葉とか見たものとか読んだものとか書いたことなんかははっきりと形として残っているからまだよいのだけれど、感じたことだとか食べたものの味だとかそういった身体に根付くものはほとんど残っておらずそれらはすべて瞬間瞬間で消費してしまったらしい。

処理しなくてはいけないことを処理したばかりだというのにここ数日のせいで再び色々と処理しなくてはいけないことがかえって増えてしまったのでなんとかしなければならないのだけれど、さて困った。どう説明すればよいのだろうか。どう対処すべきなのかな。

なにはともあれ今日は落ち着いて大学へ。あまり進まなかったけれど論文をふらふら読んで色々考えていた。チューリングの古典的な論文が面白い。あと、マッカーシーの論文にハマりぎみ。久々に人工知能ブームだ。他には、うちのボスの論文とかボスの友人の外人の論文とか。ついでにCMC系の論文も読んでみたり。暇つぶしにOpenGL勉強したりとか。

電車の中では相変わらず堀江敏幸の『おぱらばん』を読んでいて、何で彼の小説が好きなのだろうかとか考えていたら一つはインテリっぽいところというのが確かにあるのだけれど他にもあって、それは彼の物語では何気ない風景から突如として時間が過去に遡ったりさまざまな出来事がある意味わざとらしく、よく言えば奇跡的に繋がりあって、そこからリゾーム状に散りばめられた個々の生の繋がりをアーカイヴするある種歴史家のような仕事にどこか近頃の小説家には決して見られない職人芸のようなものが見てとれるからかもしれない。

あと、帰り道に山崎ナオコーラの『指先からソーダ』をブックオフで買った。この人の文章は本当に好きだ。この本は2,3ページのエッセイがいくつも集まった本でどれも面白いのだけれど、例えば「目のボキャブラリー」というエッセイが面白い。カーキ色と思って買ったカーゴパンツが母親にオリーブ色と表現され、見る見るうちにそのパンツの色が変わっていき、ピンクのピアスだと思っていたものを好きな人に桃色だとか赤だとか表現されたことを機に自分からは見えないそのピアスの色が変わってしまったというものだ。「言葉で色を見ている部分があるのだ」と表現していて、この人も世界を言葉で作り上げているのだろうなと思い親しみが湧いた。世界に能動的に働きかけることの重要性が分かっている人なのだろうなあとか色々想像して、自分はどうにも対象に対して言葉で近づいてすべて埋めつくてしまおうとするところがあるけれどこれは正しいのだろうかとか色々考えていた。言葉で埋め尽くしても対象には近づけないのだけれどな。あ、こういうことこの本の中の「伝わらなくてもいいんだ」で書いてたな。なんだかやっぱりこの作家は好きだ。『浮世でランチ』また読み返したい。

明日は大学で勉強して日曜日は久々にカメラ持って代官山と中目黒にでも行ってぶらぶらしよう。時間が経たなければ解決できないものだってきっとあるのだろう。それでも言葉がうまく重なればとかそんなこと期待しちゃうんだけど、やっぱダメなのかなあ。試してみたりとか、ダメなのかなあ。ほんとうはもっと試してみたいよ。