もしかしたら

などと思うのはもしかしたら、などと思う頭の状態だからで、それにしてもここ数週間あまりの忙しさゆえに炬燵の中で、硬い床の上で眠る日々が続いていたので先ほどちと布団の心地よさ毛布の気持ちよさなどを味わってみようかしらと毛布に包まってみたら、あら不思議、一瞬のうちに意識はぱたりとどこか夢の世界へ、そのままぐっすり眠ってしまい目が覚めると朝だった、なぞという現実を想像したりするのが今の状態なのだけれど、実際にはさらりと目が覚めたのは0時を過ぎたあたり、それにしてもパソコンのキーボードが壊れてしまった今、文章を書くことは実に不便である。

不便、というのは相も変わらずこの身体なのであるが、実に不便であることよ。さまざまな事柄はらりぱたりと考えてはほろほろ涙も出てきそうなのであるが、そうか、それにしても相も変わらないということは実は毎日は淡々と進んでいるのかもしれない。変わることもあれば変わらないこともあるし、大きく変わったことはやっぱりあって、それはいいことなのか悪いことなのかはよく分からない。

深夜にふらりふらりと見ようと思い『夜霧の恋人たち』と『5時から7時までのクレオ』を借りてきたのだけれど、どうにも最近はパリ、パリ、パリでこういうのをすいーつ括弧笑いと言うのかもしれないけれどいまやオリーブもないしどうだろうフィガロがやたらとフランス、パリには何かあるのでですよ、行きなさいよパリ、来なさいよパリ、と言っている気がするので最近はカタールに行きたいなどと思ってみたりしている。

それにしてもキーボード、この謎のキーボードを使うと文章など書けたものではないし、文章書いてる場合じゃなくてプログラム書かないとあかんので終わろうと思う。今日も色々あった。なにもしなくても時間というのは過ぎていくのだから便利だなあと思う。それは『ねじまき鳥クロニクル』を読んでいるときに思ったことでもあった。それにしてもなんとか中尉だか大尉の話が実に長かった気がするのだけれど、今『パン屋再襲撃』を読んでいて、まだパン屋を襲撃したところに一度も居合わせたことのない僕は彼の過去のことをもっと知ろうとしなくてはならない。だから、ああ、と思う。思った。