伝えられる想いと事実の範囲

どこかしら感傷的な気分になるのはきっと雨のせいで先日から何度となくくしゃみが続き花粉症かしらと疑っていたのだけれどどうやら風邪の兆候であったらしく今日は誰からか電話がかかってきて誰だろうね出ないけどねということで無視しつつ目が覚めたのだけれどずいぶん体調が悪くてやれやれと呟きながらベッドから這い出て洗面所の鏡を見ると相変わらず左目が腫れていて幼い頃から体調によって目が一重になったり二重になったりしていたのだけれど一重になっていて大丈夫かしらと我が身を案じた。

雨の日というのは比較的嫌いではなくて幼い頃に住んでいた小さな家は一軒屋で雨が降ってくると二階にあった寝室には屋根に雨が当たりぼつぼつという音が聞こえ始めていつもはしんとして寂しい夜が随分賑やかになり楽しい気持ちで眠ることが出来たという記憶があるからだろうし、他にも中学生の頃にやっていたサッカー部の練習で雨の日はグラウンドがぐしゃぐしゃで家に帰ると汚らしい格好でさっさと風呂に入りなさいと母親に言われて入る入ると行水してちょっと眠って自転車に乗って電車に乗って塾に出かけるというのが結構いい思い出だからだろうし、他にも雨の日にまつわるエピソードはたくさんあって、高校生のときにずいぶんな恋愛劇を繰り広げた女の子と初めて仲良くなった日も学校からの帰り道に台風で雨ざーざーでJRが動かなくて広島駅で立ち往生していたらたまたま出会って困ったね家どこなんだろうそっか同じ方面なんだね広電で帰ろうかでも人たくさん並んでるね仕方がないからジュースでも飲みたいな飲む?みたいな感じで二人で一つのジュースを飲んで間接キスして意識しあって、みたいな思春期全開のエピソードがあるからやっぱり雨の日は好きだ。

一回限りであることの重み(一回性)というのは僕のいる分野だと大変重要視されるのだけれど、本当に個々の人の人生というのは一回限りの出来事の積み重ねで、あのときこうしていればねということを考えて止まないのだけれどタイムマシーンをつくろうかみたいなのはある種のニヒリズムに過ぎなくて間違いだと思うから全て受け入れようねと頭では理解するのだけれど身体は理解できないらしくて本当に身体というのは不思議だなあと思うし身体について考えるのも僕の研究なのでしかしまあ自分の生きている感覚と研究は深いところで繋がっていてそれだけにうまくいかないときは辛くて仕方がないし精神面でも身体的にも病むのだけれど止めるわけにもいかないのだから困ったものだ。生の切実さとか人と人の分かりあえなさとかそういうことを考えたいのだけれど現実はなかなかタフでないと生きていけないようできつくてあかんわとなることしょっちゅうなのだけれどリップサービスを欠いたら僕らしくないので今日も明日もリップサービスを欠かさないのだけれど本当にタフさが最近足りなくて困っている。昔はもっとタフで尖がっていたのだけれど流石に20代も半ばに差し掛かってくるとカウンターパンチを恐れてか右腕から繰り出すパンチにも力がなくどこか臆病になってしまっているのでいけないなあと思う。昨日今年で30になる先輩と二人で気がついたらオッサンですよね、と笑いあっていたのだけれど本当に二十歳を過ぎたらあっという間にオッサンだから十代後半と二十代前半は大切にしないといけないのだなあと切に思う。思ってみたりなどしている。そういった意味では十代の終わりと二十代前半はずいぶんと悩んで胃薬を何十箱と消費しているので随分悩んだなあと思うししかしまあ寝る前に色々思い出すと切ないのでやっぱり心はオッサンなのだろう。夏に広島の実家に帰って中学のときの同級生や高校のときの同級生に色々会ってみようかと思っているのだけれど本当にみんなどういう人生を送っているのだろう。別に比較しても仕方がないけれど、なんだか知りたい気分で、なんかそんな気分なのはやっぱり雨のせいなのだろう。研究室の窓の外は真っ暗で雨が降っているかどうかは分からない。ここにいては外の音は聞こえない。