Your life is coming up to me!

ボスや先輩に「しばらく休暇を取ります」と宣言して新宿や渋谷や代官山や青山をてくてく歩いてみるのだけれど、行くところは決まってしまっていて、それでも平日の表参道を歩いてみたいなあと思い、歩いてみたりする。若い男の子や女の子が鮮やかなイルミネーションの横を笑顔で通り過ぎる。高級感にあふれたカフェで女の人たちの会話もはずむ。あー、あー、聴こえますか。聴こえませんよ、と知らんふり。あなたたちのいる場所と僕がいる場所はガラス一枚で隔たれているだけではないのですね。交差点で赤信号が青信号に変わるのを待つ人々。家路に着いているのか、それともこれからまだ予定があるのか。予定のない男はすっかり寒さも和らいだ空気を肺一杯に吸い込み、そしてゆっくりと吐き出す。少し物足りないな。手探りで探し当てた煙草を鞄の中からひょいと取り出し、火を点ける。十代の頃は若気の至りで煙草など吸ってみたものだけれど、遂に本当の煙草のうまさがわかる歳になったらしい。

青山ブックセンターで一通り本を眺めた後に青学の横のスタバで珈琲を飲む。カフェモカのホットをショートで。煙草はどこで吸えますか?どうやら外でなら吸えるらしいが、店の外は大騒ぎをしている学生が集まっているから本を静かに読むには適していない。わかりました。珈琲を受け取り、入り口横の席に座り、鞄の中から『河岸忘日抄』を取り出す。主人公の男は日本人で、「少し」働きすぎたと感じ、ある国の河に繋留された船の上で生活をし、様々なことを躊躇う。そこでブッツァーティを読み、その河に身を投じて自らの命を絶ったツェランの詩を誦じる。音楽を聴き、配達夫と珈琲を飲み、少女とクレープを食べる。船の大家の見舞いをし、枕木さんと文通をする。「人は独りにはなれません」、彼は此岸で躊躇いながらも彼岸を常に想う。いつか此岸を離れなければいけない。そんなことを考えつつも一歩が踏み出せない。人が新たな一歩を踏み出すときというのは三種類ある。一つは、自ら踏み出そうと思い立ったとき、一つは、誰かが背中を押してくれたとき、そして最後の一つはただそのときが訪れたとき。ひょんなことから彼の躊躇いは、彼の眠りは覚まされる。そのときはいつだって突然やってくる。

本を読み終えて信号を渡り、渋谷のほうへ向かう。時間は十時前。夜になると少し冷える。トレンチコートが風ではたはたと揺れる。青山通りをまっすぐ歩く。東京に来たら、何かあるのだろうか。そんなことを考えて上京したわけではなく、ひょんなことから、というべきかいつの間にか、というべきか、ぼーっとしていたら東京に行かなくてはいけなくなって、気づいたら大学の入学式で、気づいたら卒業していた。いわゆる大学生らしい生活をしていたわけではないけれど、さてこれからどうしようかとずっと躊躇い続けていた気がする。会社で働くという道、友人と会社をやるという道、ダラダラ生きていくという道、どうしようもなく不安というわけでもなくどうしようもなく安心というわけでもなくまるで先の主人公のように船の上でゆらゆら揺られていたようだ。あれも面白いしこれも面白いかも、と思索を重ねた末に行う選択はいつも間違っているように思われ、深夜に自転車を押しながらあーでもないこーでもないと悩んだりもしたものだ。もう少しうまく生きていかないとだめだよ、と言ってくれた人もいたけれど、うまく生きている間に感じる自分の中の時間の流れと自分の外の時間の流れに齟齬が生じてしまい、結局うまく生きていけなくなるのだった。

躊躇うことの終わりは突如として訪れる。それは必然に生じるのではなくて偶然に生じる。何もかも決まっているようで、本当は何も決まっていない。必然に生じる時間の停止を恐れるのではなく、偶然に生じる時間の変化を楽しむこと。そうした時間に対する態度が躊躇った先に得られるのだということは、決してあのときは思っていなかった気がする。ひとつひとつのものごとの生起を、経過を楽しむことが出来るのであれば、春の訪れとともに起こる時間の変化にも耐えることができるのではないか。うつろう眼前の景色のその変化のスピードについていけなくなったときには、再び躊躇えばよい。大学構内の桜の蕾が遂に開いた。その木々の下を歩いて、相も変わらず大学に通うのだろう。また、春が来た。