coming up

 あらゆる物ごとを悩むことをすっかりやめてしまった後は軽い足どりで駅まで急いだ。鞄の中にいつもしのばせていたシャープペンシルもボールペンも消しゴムも修正液もメモ帳もすべて昨日捨ててしまったから鞄の中はすっからかんで随分と軽い。いつも右手に持ち歩いていたパソコンを入れた黒い鞄も捨てた。
 そんな夢のような夢を見たのかと言われたら別に見たわけでもないのだけれど、夢など見ない日々の後に何があるのだろうねと空想・夢想の限りを尽くしてまだ見ることができていない映画のことを思いつつ、いつものように明大前の駅へ向かう。新宿行きに乗り込み映画を見るか、渋谷行きに乗り込み映画を見るか、その選択は京王線の急行に乗るかどうかという選択ひとつを僕に強いるだけなのだけれど、昨日まで降り続いた雨の名残を残した水溜りの上を軽いステップでぴょんぴょんと飛び跳ねていると憂鬱な気持ちも陰鬱な情景も目の前からも頭の中からも取り払われて、陽光のひとつも見えやしないのに明るい気分で各駅停車渋谷行に乗り込み大学へ行く。下北沢で降車しロックンローラーと酒を交わし堕落した人生の甘美について延々と語らうこともできようが、かの街に思い入れはなく、ただ若者たちが騒ぎながら一度限りの青春を謳歌している姿を横目に、何度も来るであろう選択の瞬間に怯えながら俯き加減で歩くほかないことを思うと少し残念で、結局電車からたった一歩ですら歩み出すこともできずそのまま通り過ぎ行く駅の様子を窓の外にぼんやり眺めながら時間が過ぎ行くこと時間がまさに過ぎていることについて考えていると、大学の最寄り駅の名を何度も繰り返す車掌の言葉が耳に入ってきて、躊躇うことなくその駅で降りた。
 躊躇うことなく降りることの難しさについて考えながら駅から研究室に向かったのは、昨日から読み始めた『河岸忘日抄』の中で考察されているその「待つ」という行為の豊饒性、「待つ」という行為を遂行する間に流れる時間の豊饒性について深夜一人でああでもないこうでもないと考えたからで、躊躇った末に選択を行わないことが多い人生を歩んできたような気がするからそのことについてもこれからは考えていかなければいけないのだなあ、とぼんやりとしながらこれから流れる時間のことを想い、構内のパスタ屋だか洋食屋だかに立ちよりベーコンの入ったパスタを食しながら本の続きを読んだ。食後の珈琲を頼むこともなく店を出て、煙草を吸い、噴水から溢れ出る水しぶきの一粒一粒を、一瞬一瞬を心の中に刻みながら今日もまたやるべきことをやらないといけないなという言葉が頭の中に現れて、はたと「やるべきこと?」と自問しながら空気の冷たさの中に少しだけだけれど春の気配を感じ、ここでそう遠くない春の訪れを待つことにした。