やがて種を吐き出すようなかたいかたい心のかたまり

夜は何度でも訪れる。平凡な日々を積み重ねることが生きることであるのならば、僕はそれをうまくこなしているのだろう。しかしそれでも内に秘めた不満と想いでつくりあげられた澱はうまく消化・排出されるか沈殿して蓄積されてゆくかのどちらかであり、最近の僕の心の中での出来事はもっぱら後者の方だ。

少し時間ができたので久々にカフェで小説を読んでみたり、図書館で社会学・哲学・仏文学・近現代詩あたりの本を気儘に眺めてみたりしているのだけれど、非常に楽しい。学部のころはこうして図書館で適当な本を手に取って読んでみるということを実践していたのだけれど、最近はまったくそういうことをしておらず、ああこういうのいいな、と素直に感じている。

そんなことをしているとK先生の授業の課題をやらなくてはいけないことに気づき、さてどこにフィールドワークに行こうか、と悩んだ末に選んだのは結局渋谷だった。どうして渋谷にしたかということは簡単で、大学から近いことと単純に渋谷がおもしろいと思ったからで、僕が考えるような研究はいくらでもあるのだろうと思っていたのだけれど、思いのほか見つからなくて意外に思った。とにかくこの夏は渋谷でずっと過ごすのだろうし、でもそういうことを想像するのは結構たのしい。ときには書を捨て街に出ることが大切なはず。

しかしまあ、である。いくら勉強しても分からないことばかりで、本当に何も分からなくなってくる。学問とは疑うことだ、とまではきっといかないのだろうけれども、そうはいっても疑うことはすごく大事で、でも疑いすぎると何もかも確かではなくなって不安だけが残る。何を信じるか、ということを選択することは重大な問題で、同時に難しい問題で、誰かを信じることすらできない僕には非常に困難なタスクだ。


父親からメールがあって、そこには「最後に一緒にゴハンを食べたいけどまた連絡する。気をつけてな!」と書かれており、最後か、と思わずぽつりと呟いてしまった。この”最後”は父親が東京近辺で仕事をする”最後”であり、今いる会社での仕事が"最後”であるという意味なのだろうけれど、いつかこの”最後”は父親と会話をする"最後”や食事する"最後”になったりするのだろうな、とふと考えてしまい、少しだけ泣きそうになった。あまり簡単に”最後”という言葉を使わないで欲しい。ただでさえ”最後”のことばかり考えてしまうのに。


そのあと、去年知り合ったD社大学の友人からメールが来て、返信をしたら、元気がないみたいだけど元気だしなよ、と励まされて、また泣きそうになってしまった。メールの内容は研究の内容だったりして、なんだよ研究仲間って最高じゃん、とか思って、今僕の目の前の世界は、歪んで、霞んで、よく見えなかったりする。ついでに研究者以外の道もよく見えない。嗚呼。