My life as a ...

自宅のベランダから見える街の様子が劇的に変わることはない。遠くにドコモタワーと六本木ヒルズ、東京タワーが見える。見えている気がしている。

ここ数週間は久々に大変で、いくつかのゼミの準備に取り掛かっていた。そこで修士論文のベースになることを話したり、研究って何よっていう話をしたり。ゼミで扱う論文を読んだり、論文書くのに読まなければいけない本を読んだり、図書館の地下で分厚い本から必要な部分の論考をコピーしたりなんかしていたらあっという間に時間が過ぎてゆく。あと、研究に必要なお金(本を買ったりPC周辺機器を買ったりするためのお金)を稼ぐために休日にバイトをしたり、プログラムを書いたり、PCの環境を整えたり。

そうはいっても無理しすぎると効率が悪くなることも分かっているので、しっかり眠って、ご飯を食べて、なるべくリラックスするようにしている。研究室には絶対に泊まらない。疲れたら自宅で音楽を聴きながら本を読む。修士課程で身に付けたことのひとつは研究をするための自己マネージメントだろう。あと三年間*1でこの先へ進むためにはただがむしゃらに努力するのではなくて、スマートにコツコツと結果を重ねていくことである気がする。とにかく今の思いは自分の可能性を試してみたい、ということ、かなあ。いろんな先生に相談をする中で、やっぱり海外に行きたいという思いが強くなっているのだけれど、まだ現実的な問題については考えていなくて夢の段階なのでもう少し情報を集めたい。

研究の関心にかんしても気づいたらガラリと変わっており、でも結局元の場所に戻ってきたような気もする。どうにも僕は「生きているもの」に関心があるのではなくて「生きているということ」に関心があるようで、それは今ここでは出来ない、と思ってしまった。僕にとって「生きているということ」は社会の中で人がさまざまなことを考えながら生きてゆくことであって、アリもカエルもみんな何も考えていないとは思わないし、人間中心主義的思想を支持したいわけではないのだけれど、やっぱり人間は僕にとって特殊な生きもので、そのことについて考えなければいけないという思いが強い。人間は単なる物質ではないのだと思う。殴れば壊れるところは物質かもしれないけれど、殴らなくても壊れるわけだし。

自分で書いていてもよく分からないのだけれど、とにかくそんなことを考えている。頭の中で何を考えようとそれとは無関係であるように過ぎてゆく時間*2がどうやらあるらしく、淡々と時間は進んでおり、ときどき「ああ・・」とため息を洩らしてしまう。大学の構内を歩いているとときどき友人と出会い、お互いの研究の悩みや国際情勢、世の中の歪みについて議論する。どうやら本当に大切な問題は、誰もが見落としているか、あるいは誰かに隠されているかのどちらかであるようだ。それを見つけて多くの人々に知らせる、というのが研究者の使命なのかな、なんて思っている修士二年の冬。友人がJFCの研究をやっていて、たくさんのことを教えてもらった。知らないことばかりだったので色々訊いた。クロアチアの研究をやっている友人は保坂和志高橋源一郎の新刊を手に持っているところで出会ったのだけれど、高橋の作品をまだ読んでいないというのにベタ褒めで可笑しかった。あと、ケイタイの待ちうけが恋人の写真で素敵だったので本当に素敵な人だなあこの人は、と思って今度はお酒を飲みながら語らおう、ということになった。楽しみだ。

こんな風に、様々な分野の最先端の事柄に触れられるのがきっと大学という場所の良いところなのだけれど、なかなか人と知り合うことがないのも事実で、僕がやっているセミナーも活動休止中だし、物事はなかなかうまくいかないものだ。それでもこういう生き方しかできないのかもな、と思えるようになったのは四半世紀も生きてきたからか。これが生みの苦しみなのかどうかはもっと後になってからじゃないと分からないけれど、4ヵ月後に笑っていられるためにはあともう少しがんばる必要があるようだ。

*1:もしかしたらもう少し時間をかけるかもしれない。

*2:これは何系列の時間だっけ?