石炭と電子

日々の記憶は電子的な記録とともに。長らく日記を書かなくなってしまったのは、きっとTwitterのせいで、短い言葉が連なれば日記になるというわけでもなく、こうして日記を書くことの方が自分にはよく馴染むということは、自分で気づいている。とても個人的なことを、とても個人的なふうに記す。そうして何年も書きつづけてきたのだった。

都市と自然。一日のうちに、草木生い茂る自然公園から、川沿いを歩き、モダンなまちポストモダンなまちへと足を運ぶ。川の上にかかる橋から遠くを眺めれば、大きなビルが、いくつも見える。春になれば川の上に桜の花が敷き詰められる、その光景を思い返しながら、また春がくるのか、と半年と少し前の時間を思い出す。遠い記憶は電子的な記録で。検索したら出てくる、なんてロマンチックじゃないかな、やっぱり。

青山も、原宿も、いつものようで、いつもと違って見えることに、不思議な感覚を覚えたり、人ごみにまぎれたり。たり、たり、たりで今年も終わってゆくのだろうか。指先がかじかんでキーボードを打つ手がうまく動かない。


あとは、話し言葉と、書き言葉。内言語と、外言語。あるいは、言葉のやりとりについて。人と話すときに、あるいはメールを書くときに、時間がかかりすぎるきらいがあるのだけれど、あれは、どうしてなのか。言葉の確からしさに拘るから、だとしても、それは、どうしたって伝わらないのに。努力なんてしなくてもいいところで努力をして、損をする。その繰り替えしなのだろうか。すべて繰り替えしなのだろうか、この後は、この先は。


今年ようやく冬の夜空に北斗七星を見つけた。幼かった頃に、大晦日、初詣に向かうとき、母親と兄がふたりで夜空を眺めながら、北斗七星の話をしていた。彼らの指が指し示す先に見つけられたのはオリオン座で、それから20年近く、冬の空はオリオン座と、カシオペヤ座を眺めながら夜道を歩いていた。自宅に着くまでの急な坂道を自転車を押しながらとぼとぼ歩いて帰っていたときも、やっぱり見つけられたのは、カシオペヤ座だった。


見つけられなかったものが、見つかる。知らなかったことを、知る。いつまで経ってもこの繰り返しで、来年の冬の日も同じことを考えて、気づいたらおじいちゃんになってしまうのだろうか。


先のことばかり考えても仕方がないよ、と諭され、黙り込んでしまう日常。考える前に、自分の気持ちに素直になれたら、もう少し違った世界が、見えたものかもしれない。見えているのは、目の前をよこぎる冷たい風と、環七通りを走るトラック。ためらううことへのためらいだけ。