冬眠

2009年が終わる。


あれだけ人を責めることに一生懸命だったのに、すっかりそんな気もなくしてしまった。人と深く関わることに、積極的になろうという気持ちがそれほど起こらなくなってしまったのは、少し残念ではあるけれど、仕方のないことなのかもしれない。そもそも、ずっと前から、そういう態度で生きてきたのかもしれない。

カウンセラーの先生に、君は幸せだよいろんな人に助けられて、と言われ、そうなのだろうな、とぼんやりと考えながら、とぼとぼとどこまで続いているのか分からない一本道を歩いた。祖母に電話をすると、「正月には帰らんのか」と訊かれ、「春には帰れると思うよ」と告げると、「帰らんにゃあだめで。顔を見せんさい」と電話越しに大きな声を出すので、思わず涙ぐんで口ごもった。帰る場所はあるのに、帰らないだけなのかもしれない。帰ろうと思えば、すぐに帰ることはできるのだろう。ためらいが、邪魔をする。まだ帰るわけには、いかない。



先日、学部のときの友人たちと久しぶりにご飯を食べた。みんな相変わらずで、ほっとした。友人のお腹の中には子供がいたり、左手の薬指の指輪がきらきらしていたり。同世代だけれど、彼らが話す言葉に全く実感がなくて、置いていかれた気持ちになった。なるほどもう両親は兄を生んでいた歳だ。どうしようもないことではあるけれど、何のリアリティもないし、やりたいことは山のようにたくさんある。

代官山のLOOPから帰る途中、Mクンに、「××さんも、結婚して、子供ができて、ってちゃんと生きていけるのかうらやましい」と言われ、「そうなのかなあ」と呟きながら旧山手通りをゆっくりと歩いた。それはとても静かな夜で、いつものように俯いたままこの先のことを思っていた。幸せなのか、幸せじゃないのか、何が足りないのか、何がほしいのか、誰と比べているのか、誰となら比べられるのか、本当にやりたいことは何か、やりたくないことは何か。遠回りして買ったキャスターに火をつけ、誰もいない大学のキャンパスをぼろぼろのスニーカーで歩き、自動販売機の灯りに向かってゆくさまを、滑稽に感じながらも、ああそうか明るいところ、人がいるところ、やっぱり求めているのだな、と情けない自分にうんざりしたけれど、カフェモカを買って白い息を吐きながら星を眺めていると、少しずつ落ち着いてきて、感覚がとぎ澄まされてきた頃には、妙にリアルな感覚を得て、焦りを感じるのだった。



春になったら、ということばかりここ数日考えている。春眠を貪る熊のような日々。桜の花の散るさまを横目に川沿いを自転車で走る。上京してきたばかりの若い人たちや、着なれていないスーツ姿の男女、浮かれた大学生、はしゃぐ子供。ぴりりと冷たい季節を通り越して、ふわりと緩やかな時間へ。昨年の春にベンチに座ってうとうとと眠りに落ちた木場公園。目の前では、母親と子供がシャボン玉を飛ばしたりしていて。どこまで飛んでいくのかねえ、と気儘な気分でそれを眺める。シャボン玉に当たって乱反射する光、そよぐ風、揺れるトレンチコートの裾、シートを広げて寝転がるカップル、手をつないで歩くおじいちゃんおばあちゃん。あの瞬間、幸せだ、と感じたことだけ、はっきりとおぼえていて、それは、どこかで感じたことがあるな、と記憶を辿ってみたとき、そうか幼い頃家族でよく行っていたピクニックのときだな、と気づいた。気づいただけで、何をできるわけでもないが。



東京に住んで、来年の春で7年。そろそろどこか遠くへ行きたくなってきた。世界は十分に広いだろうし、僕のちっぽけな頭の中に入っているものは、きわめて小さい。うまく生きていく必要なんてないや、と居直って、手のうちと頭の中に検索をかけると、何もなくて、でも、これならどこへだって行けるんじゃないか、という気持ちになった。だって、大切なものを手に入れてしまったら、たぶん。


あっという間の一年だった。


始まりと終わりの季節まで、あと少し。