no title


夕食後に皿洗いをしながら自分にとっての幸せというのはどういうかたちなのだろうか、と自分に問いかけていた。人に名前を知られること、たくさんお金をもらうこと、自分の能力が生かされること、愛する人たちと一緒に暮らすこと、毎日が平穏に過ぎてゆくこと、おいしいものを毎日食べること、欲求を満たすこと。どれも大切だけれど、なかなかすべてが満たされるわけではない。自分の能力が生かされるためには熱心に学ばなければいけなくて、そうすると毎日は平穏に過ぎてはゆかない。たくさんお金をもらっておいしいものを毎日食べていると、愛する人たちとの生活が崩れてしまったりもする。バランス、と簡単に人は言うけれど、そんなに簡単にバランスをとることなんてできない。何を手に入れて何を失うのか、毎日の取捨選択で精一杯だ。


夕方に図書館で本を借りて外に出ると、夏の匂いがした。自転車で草はらの横を走っていると、虫の鳴き声が聞こえた。空を見上げると、さそり座が南の空に見える。小学校の横を歩けば小さな川で何やら生き物を探している男の子や女の子に出会う。夕方には近くの高校のチャイムが聞こえてきて、坊主頭の男の子が自転車にのって通りを走り抜けていく。毎日本や論文ばかり読んでいたのでは、こうした些細な事柄に気づくことが難しくなってしまうし、仕事に追われていてもそうで、どうしたらよいのだろうか、と考え込んでしまう。そうやって考え込んでいると、あっというまに時間が過ぎていって、置いていかれてしまったような気持ちになり、焦りが募る。自然と歩くスピードが上がり、じっくりとひとつひとつのことに取り組むことが出来なくなる。



Twitterをやっていると、なんだろうなあ、人とのこの変な距離感、と違和感を覚えることがある。ブログでもずいぶんといろいろな人と出会えて、それはそれで楽しかったけれど、「フォローする」と「ブログを読む」というのはずいぶんとかけ離れた行為に思える。この人はこんな人でこんなことを考えていてこんなものが好きなんだよな、ということを分かった上での関係、あるいは分かろうとする関係ではなくて、「ちょっと興味関心が似ているから」「年齢が近いから」という理由だけで付き合うというのは、やっぱり変な気持ちになってしまう。全然知らないような人と食事をしたり遊んだりするのは昔から苦手で、それはそれで楽しいのだけれど、やっぱり苦手なので避けたいと普段から考えているのだけれど、ネットだってそうで、やっぱりそういう関係は避けたくなる。人と人の関係にそんな単純な原理を持ち込むのは、どうやら自分にはさっぱり駄目なようだ。


最近は社会保障や年金・税金について調べる必要があってそれらに関する本を読んだりしているのだけれど、社会の複雑さに打ちのめされそうになる。映画やメディアで取り上げられるような感情を揺さぶるような現実ではなくて、淡々とした現実がそこにある。工場法を少しつまんで読んでみれば、たかだか100年前に当たり前だった労働環境の悲惨さについて学ぶことが出来るけれど、同時に現在でも法律は完全なものとは程遠く、ごくごく普通の会社でごくごく普通に過重労働が強いられていたりする。法学というのは社会が変化していくにつれて変わる必要がある学問であって、永遠に終わることがないのだろうな、と今まで触れたことがなかった学問分野について思いを馳せている。そうした「役に立つ」学問というのは、やはり重要で、必要で、これまで自分のためではないところに動機をもって学んだことはなかったけれど、少しずつ自分以外の人のために学ぶのも悪くないのではないのか、と思い始めていて、興味をもっている。よく考えてみると、それは十分に、自分の能力が生かされる、ということであって、自分の幸せにも少しだけかもしれないけれどささやかな喜びが寄与されて、誰かも助かって、問題ないじゃん、と思ったりもするのだけれど、どうだろう。

価値のあることがやりたい、と思っているけれど、やっているうちに価値が生まれることもあるのだろう。なるべく何もやらないという状態を避けていきたい。学ぶことがない環境は、自分から変えていかないと。思い切って方向を変えてみるか、と決心がつき、昨日ようやくメールを送った。返事は2、3週間後には来るらしい。しばらくまた日記を書き付けたい。書いていないと、日々のことを簡単に忘れてしまう。