no title

早くも2012年がひと月過ぎた。予定通りに進んでいないこともたくさんあるけれど、それもまた仕方がないと思うようになった。大人になったのかどうかは分からないけれど、どうしようもないことはそっとしておくしかないのだとおもう。人の気持ちは変えることが出来ないし、いや、正確に言うと、変えようとしても変わらない。そういういくつかの事柄について学んだことがいくらか肩の荷を軽くしてくれたような気がする。そうやって日々を過ごしていくこともきっと大切なのだろう。大切なのだと信じている。

相変わらずときどき映画を見たり演劇を見たりしている。中華料理屋のテレビでやっていたアレンのマッチポント、カフェで流れていたカーウァイのマイブルーベリーナイツ。なんだか適当にぼうっと眺めていたのだけれど、いくつかの言葉に惹かれた。運命には従うこと。何かを忘れるためには、何かに熱中すること。アレンの映画からは前者を、カーウァイの映画からは後者をいつも教えられる。

休日はダムタイプのS/N。今は亡き男(いや、女なのだろうか、どちらなのだろうか)が映る画面を狭い部屋に押し込められた満員の観客と一緒にしばらく眺めていた。90年代の雰囲気がこれでもかというくらいに伝わってきて、少しだけ胸にこみ上げるものがあったが、懐古や追憶のようなものではなくて、ただそれは過去の事実のように感じられて。事実と現実は違うし、インターネットと現実も違う。両者が交じり合う場所で生きてきた時間は否定されるわけではなくて、やはり事実として残るだけなのだろう。こうやって書きつづけてきた日記はやはり現実ではなくて、でも事実。六年間書き続けてきたことは、事実としてここに現存している。

話は戻ってダムタイプ。舞台の上で繰り広げられるのは、生(性)について。あるいはその境界についてなのだろうか。逃れられないものから逃れようとする人々や、逃れていくものを追いかけていく人々。それこそがまさに生(性)で、そうした現実から逃れようとしてきたのがこれまでの自分だったのだろう。これからも逃れようとするのかもしれないけれど、少なくとも現実を見つめることは出来るようになってきたようにおもう。きちんとした問いを立てて、きちんとした解答を与えること。それが出来ないのでは、先が見えない。

生活のこと、お金のこと、日常の些事、街ゆく人々、頭を下げる人、煙草を吸う人、携帯電話をいじる人、電車でゲームに熱中している人、スーツを来て走る人、交番を訪れる中国人、いつもマスクをしている人、コートを褒めてくれる人、渋谷に落ちていた手袋、パソコンのバッテリー、炊飯器、就活生、大学生、スカイツリー、偉そうな人、謙虚な人、無口な人、おしゃべりな人、階段で足を踏み外して、なんだかすっかり落ち着いて、左手の薬指の指輪だとか、少しずつ増える白髪だとか、割れた爪先だとか、置いてけぼりの子供だとか、かっこいい眼鏡だとか、積み上げられた書類だとか。

そういうたくさんのものが巡り巡って、相も変わらず普通の一日を過ごしている。そうやって明日が来ることを、こうやって今日も書き残すだけ。書き残すことだけでも何か少しは価値があるのではないだろうか。そんな風に自問自答している。