カッコイイ人

boy-smith2006-04-22


昨日、定食屋で生姜焼き定食を食しておりましたところ、背後からこのような声が聞こえてまいりました。

「××さんは、言うことだけはイッチョマエだよな。あれで、ポルシェとか乗り回してたら、××さんスゲェ、カッコイイってなるのにな・・」

成る程、ポルシェに乗ってる人って「カッコイイ」んですね。それは知らなかった。というか、気づかなかった。元来僕は車というものに全く興味がありません。そのことも関係しているとは思います。成人男性が凡そ興味を持つことにあまり関心が無いのです。あえていくつか挙げるとしたら、「洋楽」「ファッション」くらいでしょうか(高校生のときに「smart」という雑誌に載ったこともあります)。しかし、両者とも最近は雑誌を熱心に読むわけではありません。映画を観て「この”着方”はカッコイイ」と思ったものを参考にしたりとかイギリスのミュージシャンの”格好”を参考にしたりしているので(それらがあくまで彼らの「外的性質」であると判断している)、「イマドキ」な若者の格好はしなくなりました。「アメリカンラグシー」等のセレクトショップが提供しているようなスタイルに興味がないということです。それはそれで「ダサイ」と思ってるわけではありませんが。そもそも僕にとってのファッションは「流行」と同義の「ファッション」(大量消費的・記号的なファッション)ではなく、もう少し「個人的」なものだからです。随分話がそれた感じになっているので、少し戻りましょう。つまりは、「ポルシェに乗っている人がカッコイイ」のではなくて、「ある人がポルシェに乗っていて、その人がカッコイイ」という時系列でものごとを考えなければいけないということです(当たり前のように聞こえるでしょうが、実際にはそのように考えていない人が非常に多いと感じています)。前述では、まるでポルシェがポルシェに乗っている人の属性になっていることに非常に問題があるということです。ウィトゲンシタイン風にいうと、「外的性質」と「内的性質」が対象を捉える際に混合されているということです。ここで、少し具体的な例を出しましょう。キムタクがカッコイイと私を思わせるTシャツ(ここでの私は、まず「感覚的」に「カッコイイ」と思っている)を着ているとします。それを「カッコイイ」と思った私がそれと同じTシャツをナンバーナインのフラッグショップかどこかで買ってくる。果たして私はカッコよくなれただろうか?恐らくカッコよくなれていないでしょう。私がカッコいいと思ったTシャツはキムタクという文脈(若しくは身体)を通してカッコよかったわけであって、そのTシャツが単体としてカッコよかったわけではないからです。では、なぜそのTシャツが欲しくなるのか?それは、そのTシャツを「カッコイイ」と思う他者の存在が仮定されているからでしょう。しかし、その他者の欲望に対するメタな欲望とは果たしてア・プリオリに生成されてよいのでしょうか?僕はそのような仮定は論理的にはされてはいけないと思いますが、現実にはそのような仮定をしても概ねその仮定が「偽」になることはないでしょう。何故か?それは実際にそのような仮定をする人間が2人以上存在すれば、その仮定が成り立つからです。一人ではメタな欲望は成り立ちませんが、二人以上いれば、メタな欲望は成立する。しかも、そうした背景にマスメディアの存在があるような気がします。今や私たちはマスメディアの存在をメタな視点で確認でき、メタな視点から再び下位の階層に戻るという思考実験が可能になっています。したがって、欲望する他者の存在を容易に仮定し存在を想像できるのでしょう。こうなると、「外的性質」と「内的性質」が混合されるための舞台は整えられたようなものです。つまり、「外的性質」が他者の欲望にさらされることで、「内的性質」に転換されているのではないかということです。はじめの話に戻ると、前述の発言をした人は「ポルシェに乗っている人」をカッコイイと思う人の欲望をメタ的な視点で欲望しているということになるわけです。このことで、「外的性質」である「ポルシェに乗っている」ことと「内的性質」である「××さんである」ことが混合されてしまうわけです。

このようなこと(他者のア・プリオリな仮定)は現代社会においてはかなり蔓延しているような気がします。消費社会の根底にあるものとして、「他者のア・プリオリな仮定」を感じずにはいられません。「外的性質」と「内的性質」が混合された世界では、マスメディアから吐き出される大量のシーニュをただただ感覚的に判断・処理する機械的人間の存在が目立ち始めるのでないでしょうか?そうなると、非常に大きな問題だと思います。

参考: ウィトゲンシュタイン論理哲学論考野矢茂樹
    定食屋のサラリーマンの会話