さよなら

何か長年使っていたものを捨てるというのはいつもすごく勇気がいる。

もっとも古い記憶から手繰れば、小学生のときに、僕が生まれたときから飼っていた金魚を川に逃がしたことがあった。

いつも家の二階に聞こえていた水槽のポンプの音が聞こえなくなった夜のことを思い出すと、いまでも切なくなる。

次は友人との別れか。

小学5年生・6年生のときに毎日遊んでいた友人が僕も含めて5人いた。

何も言わなくても学校に行ったら誰かいて、毎日卓球とサッカーをしていた。

そんな5人のうちの二人が卒業とともに引っ越した。

残りの三人のうちの三人とも高校でバラバラになり、次いで引っ越した。

だから、もう僕たち5人が自然と揃うことはほぼなくなった。

大学に入学して東京での生活が始まる前に、何度か小学校に行ってみたが、当然誰もいなかった。

僕らが毎日遊んでいたグラウンドは、5年以上の月日が流れたにも関わらず、全く変わっていなかった。

遠くに見える山。

体育館から聞こえてくるバスケットボールの音。

鶏小屋のにおい。

何もかもが5人全員が揃って暗くなるまで遊んでいたころと同じだった。

グラウンドに寝転がって、空を見上げた。

空だって、あの頃のままじゃん。

でも、やっぱ足りないんだよな。

全く足りてないよ。

そう思い、静かに風の音を聴いていた。

誰かがいなくなるというのはこういう感覚なのかもしれない。

何かがなくなるってそういうことなのかもしれない。

自転車や金魚でさえ耐え切れないのに、人間だったら耐えれるわけないよな。

別に死別じゃなくてもこの様じゃ、情けないな。

もし「いて当たり前」の人がいなくなったら僕はどうなるだろう。

空虚な空を一日中眺めているのだろうか。

それとも前に進めるだろうか。