科学と私

なんだか知らないが、トラックバックが付いていた。

僕が物理用語を用いたためのようだ。

しかし、困ったものである。

僕は物理やさんの卵でもなければ、物理やさんになりたいと思ったこともないし、何よりなれるとは考えがたい。

「物理は苦手だ」と書いたのは正真正銘の事実なのだ。

まぁ、数学やさんの卵でもコンピュータやさんの卵でもないのだけれど。。

そもそも物理やさんというのはそんなに「測る」ことが重要だと考えているのだろうか?

あらゆるものを「測った」ところで一体何が明るみに出されるのかが僕には分からない。

「測った」ことと「分かった」ことは同値ではないだろう。

例えば僕という人間のあらゆるものを(身長、体重、血圧・・・)「測った」ところで一体僕の何が「分かった」ことになろうか?

これは、僕にはある種の要素還元論的思考の最たるものに思える。

確かに、「物質であるニューロンから意識が生まれる」といった問題を考えるときにどう説明するんだという疑問もある。

意識を物質に還元できないという考え方は「生気論」になってしまうからだ。

しかし、本当にそうだろうか?

「意識を物質に還元できない」とう主張を「生気論」に結びつけるのは短絡的すぎやしないか?

僕は、それはただ単にそれが記述できないだけであるような気がする。

「科学」というのはそもそも仮説の上に成り立っている(ある程度の飛躍がある)のだから、先の主張を「生気論」と片付けてしまうのならば、「科学」自体が「生気論」だということにもなろう。

ニュートンの力学方程式にせよ、「質点」なるものはどこにも存在してないわけだし、「力」なんてものが本当にあるのかは非常に疑わしい。

しかし、その「質点」なるものや「力」なるものを仮定してしまえば世の中のあらゆる現象が説明でき、あらゆる工学的応用が可能になる。

十分に経験論的なのだ、「科学」は。

十分に「生気論」的なのだ、「科学」は。

だから、「意識を物質に還元できない」という主張を「生気論」に結びつけるようなフェーズでものごとを考えるのならば、恐らく意識が物資に還元されているかのごとき法則を見つけたとしても、それは彼らのいう「生気論」に基づいたものになっているだろう。

よって、僕が思うのは、現在の僕らのもっている「科学」の記述方法ではなくて、新しい枠組みの「科学」の記述方法で記述する可能性を探る必要があるのではないかということだ。

それは、今までにもなされてきたことだと思うし、とりわけ物理学者は貢献してきたと思う。

だから、僕は物理学者をはじめサイエンティストは「測る」ことに満足しているのではなくて、その「測る」ための「ものさし」のほうにもう少し気を使ってほしい。

そして、「測る」のではなくて「分かる」ことに拘るべきだ。

そうすれば、僕らはまた新たな世界を垣間見ることができるのではないだろうか?