こうしてまた更なる一日が愛おしくも過ぎてゆく
今日はお休み。
正午頃に起きて、「アッコにおまかせ」を見ながら二度寝。
それでも、2時前に家を出て図書館で課題プログラムを考えるも挫折。
しょうがないから、コンピュータ教室で油を売る。
昨日観た映画が一夜明けても強く印象に残っている。
「パッチギ!」にせよ「リリイ・シュシュ〜」にせよ、邦画にも面白い作品がたくさんあるのだということを痛感。
もしかしたら、洋画を観て洋楽を聴く僕のバタ臭さはこのブログを読む人にしっかり嗅ぎ取られてしまっているのかもしれない。
別に僕は日本が嫌いなわけじゃないんだけど、日本で人気のあるもの、日本でつくられるものってのが大量消費的・記号的なものばかりだから日本のものから離れていっただけだ。
アメリカにもそれは感じられるけど。
生産されては消費されていく生産物の数々を眺めていると、僕は極端に恐ろしくなり、悲しくなるのだ。
そこからは個別性が剥ぎ取られ、代替可能な記号が右から左に流れていくだけだ。
まるで、回転寿司のネタみたいに。
僕はそれを食べる側にも食べられる側にも、そして作る側にもまわりたくない。
そんなものどれだけ食べたって、どれだけ作ったって、満足しないだろうから。
昨日、NHKで爆笑問題が東大で「教養」を語る番組をやっていた。
東大側のホストは小林康夫先生。
どんな話が展開されるのかと非常に楽しみに観ていた。
「専門家なんてのは、陶芸家のおっさんみたいで自己満足なんだよ」
確かに「専門バカ」のやっていることはそうかもしれないし、そうでなくても僕はそれは確かに「バカ」なんだと思う。
でも、果たして「自己満足」はだめなんだろうか?
一般ウケのよいものなんてのは今の時代、オペレーションズリサーチなんかでそれなりものは作りだせるのだ。
しかし、果たしてそこから芸術(僕はこれをある意味で「個別的」なものの最たるものだと思っている。たとえば、ラスコーの壁画を考えてみると、それは(太田光の言うような)「必然性」(自己欲求)によてt生み出されたものだと思う。)が生み出されるだろうか?
僕は、世に名を知らしめている芸術品の数々は、やはり陶芸家のおっさんが作る陶芸と同じ志向性をもって生み出されたのだと思う。
太田光の言う「必然性」ってのは、結局「自己満足」にしかならないだろう。
「評価」というのは他者の視線が必ずつきまとうから。
だから、どれだけ「必然性」を説いても「自己満足」といわれる可能性は回避できないのだ。
だれも「自己」を代替できないのだ。
だから、何も「自己満足」だって言って批判する必要はないと思う。
それは観察する視線の違いに過ぎないのだから。
また一方で、確かにアカデミックな世界や絶対的権力が力を持つ象牙の塔なんかは壊してしまっていいのだと思う。
そうしたものを壊せるのも、まさに「教養」なんじゃないかな?
まさに「教養」を持ち合わせた人間が「内部」から権力を相対化することができるのだと思う。
そこでは、代替可能性という差異0の性質をもつ大量消費的記号のもつ「意味」は完全に相対化され、消滅し、新たな価値観と可能性を秘めたものが生き残り、動き出すのではないだろうか?