奏でられた音に僕はその意味を探る

先日書いた記事にid:seijotcpさんからトラックバックを頂いた。

ありがとうございます。

さて、今日は相変わらず普通の日。

グラフ理論、データベース、英会話。

グラフ理論のレポートの評価が10点中2点・・。

おいおい。。

コメントに書かれてることに納得はするものの、2点って。。

データベースも分からなくなってきました。

大丈夫かいな。

にもかかわらず、昨日InterCommunicationジュンク堂でゲット。

なんてったって、保坂和志さんと郡司ペギオ幸夫先生の対談ですから(ここでぶっちゃけるのもナニですが、以前書いたGさんというのはまさに郡司さんのことです)。

なんか、もったいなくて進みません、ページが。

鈴木健さんの記事は読了。

Web2.0の話題は前にも『ウェブ進化論』のところで述べたとおり、あまり興味がないので、いまいち楽しめず。

ただ、「コンピュータ・リテラシー」という言葉の使い方について反省を促す部分に思わず「そうだ」とうなずく。

「コンピュータ・リテラシー」を持ってる人や、コンピュータを「使いこなせる」人ってのはWordやExcellで文書を書いたり、IllustratorPhotoshopでカッコイイ画像を作り出せる人のことでもなければ、プログラムを書ける人のことでもない。

外部の専門家に頼るのではなく、「その手」で、たちどころにメディアをつくれる人のことなのだ。

(一部改変)

でも、僕が周りの人間(友人等)を見ていて思うのは、

「そのコンピュータ・リテラシーってものの識字率をあげるのは相当大変だぞ」

ってことです。

だって、彼らにとってパソコンはブラックボックスで問題なくて、プログラミングを学ぼうという意欲もなければ、いわんやメディアつくることをや。

能動的になる「必然性」がないのです。

音楽データと映像データを貯蓄・加工してあとはmixiでもやればいいやっていう、まさに高価な「おもちゃ」なんだから。

そりゃあ、ホリエモンみたいなミーハー男がIT長者になりますぜ。

ああいう人は「おもちゃ」だって思ってないもん。

まぁ、誰にでもチャンスがあるって意味ではいいことなのではありますが。

ところで、先に識字率を上げるのは大変だぞって書いたのですが、Web2.0以降の世界においては、ソースのコピーだけで誰でもソーシャルウェアの開発・運用ができるサービスなんかが待ち構えているそうだ。

でも、それでも僕は識字率を上げるのはすごく大変なことなのだと思う(勿論、不可能だとか言ってるわけじゃないけど)。

だって、どれだけそういう環境を整えたって、使う側にとっては相変わらずコンピュータは「おもちゃ」なんだから。

赤ん坊にカンガルー革のサッカーシューズを与えても、その子が一流の(別に三流でもいいけど)サッカープレイヤーになるわけではないでしょう?

僕は、識字率を上げるためには、やっぱり教育が必要なんだと思う。

いつまで経っても「必然性」が生まれてこない人ってのは生まれてこないのだから。

だから、どうしても識字率を上げたかったら、やっぱ地道に教育の中でリテラシーを養わせる教育をしてあげるしかないような気がします。

で、ある一定値を越えたらミームじゃないけど、言語みたいに遺伝していき、高い識字率を保つようになるのかな・・。

もしくは、「おもちゃ」の「おもちゃ」性を活かして識字率を上げるってのも考えられるけど(ゲーム感覚でソーシャルウェアの開発・運用ができるようにするとか)。

でも、なんだか情けなくて僕は見てられないな。

コンピュータ・リテラシーを高めるというのは大変な問題だ。