I can do something not bad. It's enough for me to live.


俯きながら歩く月明かりの下で夜の暗さが一層増していく。

手に触れたものがすべて贋物のように思えてくる。

それでも研ぎ澄まされた感覚は宙をくるりと旋回し、やがて元の場所へと戻って来る。

「キー・ポイントは弱さなんだ」

誰かがそんなことを言っていた。

戻らない時間を取り戻すかのように時計のねじを巻き続けたら

新しい世界のコードを解読出来るのだろうか。

世界の秘密を探す旅。

世界の秘密を想う度。

「ねえ、ジェイ。」と鼠はグラスを眺めたまま言った。「俺は二十五年生きてきて、何ひとつ身につけなかったような気がするんだ。」
 ジェイはしばらく何も言わずに、自分の指先を見ていた。それから少し肩をすぼめた。
「あたしは四十五年かけてひとつのことしかわからなかったよ。こういうことさ。人はどんなことからでも努力さえすれば何かを学べるってね。どんなに月並みで平凡なことからでも必ず何かを学べる。どんな髭剃りにも哲学はあるってね、どこかで読んだよ。実際、そうしなければ誰も生き残ってなんかいけないのさ。」
 鼠は肯き、三センチばかりのグラスの底に残っていたビールを飲み干した。レコードが終り、ジューク・ボックスがカタンと音を立て、そして店が静まり返る。
「あんたの言うことはわかりそうな気がするよ。」でもね、と言いかけて鼠は言葉を飲みこんだ。口にしてみたところで、どうしようもないことだった。鼠は微笑んで立ち上がり、ごちそうさま、と言った。「家まで車で送ろう。」
「いや、いいさ。家は近くだし、それに歩くのが好きなんだよ。」
「それじゃおやすみ。猫によろしくね。」
「ありがとう。」


1973年のピンボール』 村上春樹