ざっき。

研究室から雨眺めながら考えた。

どうにも雨というのはこちらの予期せぬときに降ってくることが多く、そういえば確か先日、といってもどれくらい前か分からないのだけれどとにかく先日帰宅途中に雨が降っており、傘をもたずずぶ濡れになりながら「雨だなあ」というまったく意味をなさないことをただぼんやりと考えながら歩いていたら、二人の男女が雨の中きゃあきゃあはしゃぎながら手を繋いで走っていたので、ああ、映画じゃんか!と酷く羨んだ。

まあ、とはいえ僕はなんといっても『カイロの紫のバラ』が好きな人間である以上映画に何か神秘的なものとか畏れ多いものとかそういうものは求めていなくて、ただその不可能性を肯定した上で作者が意図的に、あるいは非意図的に「他者」と対話するという作品が僕は好きだなあ、と思う。

どうしてこんなことを書いたかというと、それは先ほどの授業もそうだし、今読んでいる(これ、大変面白いのでこれから卒業論文を書く人は読んでみることをオススメするのだけれど)『大学生の論文執筆法』という本の著者の石原千秋という先生が「テクスト論」という言葉を使って(使って??)「作者の意図などそれを読んで分かるわけがないではないか」という至極当たり前(だれでも一度はそういうことを思ったことがあるだろう)なことを(少しだけど)論じていて、だから結局テクストを「読む」という行為も「自己」と「他者」の相互作用なのであって、そこには肯定すべき不可能性があるのだなあ、としみじみと感傷に浸った(実感した?)からである。

しかしながら、この一端「不可能性」や「分からなさ」を肯定して上で「他者」に対するアプローチを仕掛けることは、(そこにハラスメントという文脈が生じてしまうことが多々にありはするが)結局「愛」につながることができるわけで、その可能性に大して開かれていないもの(「外部」の存在しない「閉じた」もの)というのはどうやら「システム」の崩壊につながるらしい。それはY富さんの議論においてそれは経済システムの崩壊(バブルの崩壊)であったようだが、それはコミュニケーションシステムでもよいし、さらにはそれを構成要素とする社会システムでも良いのだろう。今ままでは何故その「愛」につながるような道(例えば「他者」への接近)が重要なのかということが説明できなくて困っていたのだけれど、実際にそのシステムの崩壊の様子を示すことで説明が可能になるかもしれない(しかしながらこの説明は予定調和的で完全な説明にはなっていない)。システムというのはいたるところに遍在しているので、他にも適応は可能であろう。実際、金曜日のゼミでおこなっている世界システム論(たしかこんな名前の受講名だった)においても「国際システムの崩壊」の様子をシミュレートしており、シミュレーションと僕自身の問題を繋ぐ道をずっと考えているのだけれど、少しだけ光が見えたかもしれない。

ということで、気づいたら研究の話になっていました(から、研究エントリーだ)。。研究室の外をざーざーと降る雨は一向に止む気配がなく、こんな日には一人頬杖つきながら本でも読みたいのだけれど、やらなければいけないことはまだまだたくさんあるのである。