昨日は偶然、今日は必然。

私の作品を読むことは、作ることと同じだ。


マルセル・プルースト

何かを書くという行為は必然的にその書き手個人の内には閉じない。書かれたものは読まれなければならず、書かれたものが読まれなければ、それは書かれたことにすらならない。

つまりは、書くという行為は読むという行為を含めて行われる行為なのである。

だから、一人でやっているわけではないのだよなあ、と改めておもうわけで。のだけれど。ね。うむ。

どうにもさまざまな問題が生じることが危惧されて困ったものだと思い、困ったなあ困ったなあと思いながら気づいたら数日経っていたのだけれどその間にも他に困ったことは山積みになるわけで某先生に会いにいって困った困ったと言い今後の進路について相談したのだけれどそのおかげでとりあえず来年の四月までにやることやらなければならなくて、いかんいかんやること沢山あるではないかと思い、結局自分は何になりたいのかというと研究者になりたいし、研究者になりたいというのは別に野球選手になりたいと言っているわけではなくてそれなりに現実味があるはずなのだけれど現実は結構大変で、なんとかそれでも生き残れるくらい努力はしてきたような気はするし、いやでも気がするだけかもしれないし、要はそういうことをぐだぐだと相談していたのだけれど、まあ、わが人生は困ったことばかりであって、こまらない人生というのはないのだろうかと思うが、とにかく相談しに行って言われたのは「選択肢はたくさんあるよ」ということで、なるほど考えてみたら自分は選択というのをあまりしてこなかったなあと思うわけで。でも、そう考えたらやはり大学院に関しては選択をしたような気がするし、でもひとつしか受けなかったのは選択をしたくなかったからかもしれない。

いつものような書き出しで書いてみると、今日は朝から大学の研究会に出て、という書き出しになるのだろうけれども、まあ、今日も朝から大学の研究会に出て色々話を聞いていた。雨が降るわなんやかやで寒い感じだったのだけれど、本当に寒くて寒いなあ寒いなあと呟きながらキャンパスを歩きながら水溜りぴょんぴょん飛び越して小さい頃に長靴はいて雨の中ぴょんぴょんはねてたの思い出してやっぱ雨素敵、と思ったのだけれどいつまで続くのかしら梅雨。

ところで「昨日は必然、今日は偶然」というのには意味があって、それは昨日までは出会うことが必然だった人たちが今日は偶然出会うような関係になるようなものなのではないのか人の関係は、という意味がこめられているなのだけれど、本当は逆がいいなあと思っていて、昨日までは偶然にしか出会うことが出来なかった人たちが今日出会うことは必然になるといいなあ、と思うからで、本当にそういう関係がいいなあと心から思うし、でもそういうのってすごく難しいのだろうと思う。偶然の出会いはきっとあとから考えたら必然のように見えるのだろう。それはジジェクも『斜めから見る』の中で述べていた。

さて、人と人のあいだにあるのは一体なんなのだろうか。そういうことをかんがえてみる。距離があると触れられないから呼びかけるしかないのだろう。ことばがさまざまなものをつなぐ。ことばが。ことばが。ことばが。

Phoenix - Long Distance Call