本当のことを聞きたい?

「去年ね、牛を解剖したんだ」

「そう?」

「腹を裂いてみると、胃の中にはひとつかみの草しか入っていなかった。僕はその草をビニールの袋に入れて家に持って帰り、机の上に置いた。それでね、何か嫌なことがある度にその草の塊を眺めてこんな風に考えることにしてるんだ。何故牛はこんなにまずそうで惨めなものを何度も大事そうに反芻して食べるんだろうってね」

風の歌を聴け』 村上春樹

年の終わりも目の前に迫ってきて昼夜の寒暖の差も大きくなり、夜空を見上げるとそこを相変わらずオリオン座がわがもの顔で占拠し、吐く息は白く、街は色鮮やかなイルミネーションの光に包まれて、あれから一年経つのだなあとかさまざまな思い出が頭の中を駆け巡る。自分の位置と進んできた道を確認しながらなんとか前に進んではいるものの一年前に思い描いていた自分の理想像にそれなりには近いから、もう少し頑張ってみようと自転車のペダルを漕ぎ出す。冷たい風とか重たい鞄とか、なかなか進まない自転車の車輪の動きにヤキモキしたりしながら「これでいいんだよね。こんなもんだよね」とひとりごちた。

今日は今日とて面白そうだった一般向けのシンポジウムへ。昨日も話題になったカルテックの下條さんの話が聞けるということで、ふらふら出かけたのだけれど、しょっちゅうコマバには来ている感じなので行かなくてもよかったかもしれないようなそうでもないような。どちらにせよ十川さんの話を聞きたかったからいいか、とかエアギターのなんとかという人を眺めてみようと思い朝さくっと起きて青山へ向かう。

いつものように山手線に乗っていると元気のいい子供が二人。幼稚園生くらいの女の子と男の子で、女の子のほうが「××くんはやさしくないからきらい!」とすねると男の子が「えー!?」と変な顔をするので、女の子の方が機嫌を損ねて「もう!」とそっぽを向くものだから、男の子が女の子の顔を両手で包んで自分のほうに向かせてチューをする、ということをやっていて、近くに座っているオバサンが笑っていたのでその女の子が「みんな笑ってるよ、ははは!」と僕のほうを見てウインクするものだから僕は「すてきだね」といった表情で応えたら「素敵でしょ!」という笑顔で返されて、素敵な二人だなあ、と思った。ほんと素敵だったな。ホントはそんなのがいいのだけれどね。ホントはね。むずかしいね。

新宿から大江戸線で青山へ。ふらふら会場へ行き、ふらふら話を聞いて帰った。珍しく話を聞きながらおかしな位広範な色々なことを考えはじめて、やはり「人間って何よ?」といった問題に関しては過敏に反応するのだなあということを確認。議論したい話題がたくさん出てきて途中から自分が喋りたいなー、ということばかり思ってしまいノートに黙々と議論ポイントを書き留めておいた。やっぱり精神分析は効くなあ、ということも久々に確認できた。そもそも自分の考えている「自己と他者の問題」というのは精神分析の根本的な問題と一致しているのだから当然なのだけれど。あと、テーマが「情動」で*1、情動政治なんかが現代思想で問題になっていたりして、いまや精神安定剤すら経済システムに組み込まれているということを聞いて、今後鬱病患者は量産されていくのだろうなー、とか思った。*2やっぱりフーコーが指摘したように精神病理は社会によってつくられるものなのだろうかとかあまりにたくさんのことを考えすぎて大変で、なにはともあれこの人たちは間違いなく同じ方向を向いているなあと思った。「まともになんてならなくてよろしい」と言っていた廣中さんに研究者の人たちはみんな同意していたけれど、もちろん僕も同意で、人のやったことを追従するのは研究者としてはダメだよなー、と最近ボスとも話している。あと、言語、知覚、欲動、情動の関係性というのを十川さんが話していて、うちの研究室でやっているようなこととの関連性について議論したいなあと思ったり。十川さんの「人間は不安という情動と言語によって規定される」とか「人と生きることが人生で最も重要なこと」とかなかなか素敵な発言もよかった。

帰りに新宿で色々試聴したけれど、名前は全て忘れた。忘れるというのは脳の重要な機能なのだろうな。まずいものを反芻しないために。本当に忘れてしまおうか。

Sting Englishman in New York

帰り道に頭の中でリピートし続けていた。

*1:情動というのは感情と違い身体に根ざしたもの。例えば、身体が震えてしまうような感動とか。

*2:精神科に行くといつも抑鬱だとかいう診断をして薬を出すだけだものな。あれはマズイくて、経済・社会システムによって生産消費ゲームに組み込まれるのがオチ、かな。SSRIが産業化されてるらしい。