カツラ美容室別室 / 山崎ナオコーラ

カツラ美容室別室

カツラ美容室別室

エリは紺色のシャツを着て、小さく座っている。美容室にいるときに捉えていたよりも、エリの体は小さい。エリとオレの会話は次第に弾んでいく。久しぶりの甘い感覚がオレを襲う。もっと話したいな、二人でもっと話してみたい。エリもきっとそう思っている。そんな気がする。そう思った途端、体がじわっと熱くなる。こんな感じは、恋の始まりに似ている。しかし、似ているだけで、きっと、実際は違う。このところ仕事相手とばかり喋っていたオレだから、ただ単に、自然な感じで女と仲良くなりかけているという状況に、心が和んでいるのだろう。

今年の芥川賞候補になっている作品で、山崎ナオコーラはおそらく単行本としては三冊目だと思うが、全て読んでいる。まだ発売したばかりだというのにもう増刷を重ねているのだから、映画『人のセックスを笑うな』の公開に伴ってずいぶん盛り上がっているようだ。

この作品は『人のセックスを笑うな』と同様に男が主人公だ。『人のセックスを笑うな』の主人公が好きになる相手はユリ、この本の主人公が好きになる*1女の子の名前はエリ。始めのほうは、同じような展開になるのではないかと心配したが、そうでもなかった。

主な登場人物は27歳の主人公淳之介と同い年でカツラ美容室別室に勤務するエリ。淳之介ととある縁で仲良くなった32歳のフリーターの梅田さんに、カツラ美容室別室の店長でカツラを被った男の桂孝蔵(カツラさん)とその店の店員の桃井の五人だ。

舞台は高円寺純情商店街*2を抜けて庚申通り商店街の中を歩いていったところにあるカツラ美容室別室だ。勿論気になるのは、この「別室」なのだが、それは桂孝蔵の母親が営む店が小倉にあって、それが本店だからこういう名前がついたのだ。

ここで余談ではあるが、僕は東京の街を舞台にした小説が好きなのでずいぶんとこの世界に引き込まれたということを述べておきたい。例えば、村上春樹の『ノルウェイの森』は目白、早稲田、四谷あたりが舞台で、実際にその場所を訪れると、小説の中の世界と同じ建物があったりする。さらには、堀江敏幸の『いつか王子駅で』もその類の本だ。これも、早稲田から走る都電荒川線の先にある王子駅を舞台に繰り広げられる人々の何気ない日常を描いた作品だ。他にも、それこそ夏目漱石の『三四郎』は全て読んだわけではないが、それでも三四郎池の横を歩くときに物語の情景が頭の中に浮かんでくる。ついでながらに名前を挙げてみると、映画ではあるけれどホウ・シャオシェンの『珈琲時光』も日比谷が出てきたり御茶ノ水が出てきたりして実に面白いし、ソフィア・コッポラの『ロスト・イン・トランスレーション』も東京が舞台で、目黒が出てきたり、代官山のAIRスカーレット・ヨハンソンが踊っているシーンが見れたりする。*3とにかく、東京の見慣れた街を舞台に起こる出来事は東京を愛している人間の眼にはすこぶる魅力的にうつるのだ。

(ここら辺からネタばれします)

ところで、この本の話に戻るが、前半は特に何も起こらない。カツラさんのカツラについてのツッコミがあったり、梅田さんの破天荒っぷりや海棠君の二股*4といった事件が突発的に起こるも静かに熱は冷めていき、主人公がエリに好意を抱きつつもデートを重ねたりするなかで少しずつ友人に変わっていくさまが見てとれる。

決定的に物語の展開がガラリを変わるのは、カツラさんの祖母が死んでからだ。カツラさんは母親の跡を継ぐために福岡へ帰るということを決め、カツラ美容室別室の跡継ぎを決める。候補はエリか桃井さんの二人しかいないのだけれど、当然自分が選ばれるものだと思っていたエリは桃井さんが選ばれたことに腹を立て、カツラさんと仲違いをする。そんな中で淳之介はエリがカツラさんに対して向ける感情の吐露を聞かされる度に完全に恋から目が覚める。それでもエリとカツラさんの仲を取り繕ろうとするが、結局無駄に終わり、カツラさんは東京を去り、小倉へ向かう。その後、エリはカツラ美容室別室を辞めることもなく仕事を続け、梅田さんは定職を見つけて北海道に旅立つという。そんなある日、美容室の好例のお花見が開かれる。エリとカツラさんのことも桃井の店長という仕事への不安も解消されないものの新しい美容室のメンバーも加わり、お花見は盛り上がりを見せる。お花見の席で、淳之介はエリが思い切って切った短い髪を見ながら「可愛い」と言うとエリははにかみながら「ありがとう」と答える。二人は草と土の匂いを含んだ空気の中、薔薇色の雲の下を何気ない会話をして歩く。

「桜、好き?」

「うん。好き好き」

遠くから梅田さんの怒鳴り声が聞こえる。

「なあ四十歳になっても、八十歳になっても、お花見しような!」

「しよう、しよう」

とエリが頷いた。

*1:実際には、好きにはならない。

*2:ここで、ねじめ正一の『高円寺純情商店街』を思い出す。

*3:正確には、「踊って」はいなかったかもしれないが

*4:本当は二股ではない。たぶん