no title

深夜の京王線沿いの舗装された道を歩けば革靴の硬い底が灰色のコンクリの凸凹にぶつかりはね返った音が遠くまで響いていく。音の速さは列車の速さよりも随分と速いので先にあちら側のホームにたどり着くはずだが、空気中を伝わる音の波は拡散あるいは弱まって、行き場のないどこかへ消えていく。目的地にたどりつかないものは、世の中にはとてもたくさんある。目的地だった駅前マクドナルドはなぜだか閉まっていて、出足を挫かれた作業は宙ぶらりんになった。


仕方がないので自宅に戻り、缶コーヒーの缶を真横から左手でつかみ、右手でタブをしっかりと引っ張りぱちんと音をたててからずずずという品のない音とともに飲みはじめる。あれだけ飲めなかったコーヒーも今では砂糖もミルクもいれずに飲んでいる。それに、まったく食べられなかった魚も今では美味しく食べている。やれば出来ることから逃げることと同じで、食べられない、飲めない、と自分で決めつけてしまっているせいで身体が受け付けなかったのかもしれない。


ぐるぐる回る思考の帰結に何度もため息をつく。ああ、またあれやこれと向かい合わなくてはいけないのか、という想像が気持ちを萎えさせる。離れたり、近づいたりの揺れ動きによる振幅は徐々に大きくなっていき、大切な感情にいつの間にか暗いかげがさす。せっかく作りあげた大切なものを壊したくなる衝動に負けてしまいそうになるときのあの均衡のことを考えただけで、どこかでうまく保たれていたはずの均衡が少しずつ崩れていく。



身体なんてなければいいのに、と少しだけ願う。離れていてもうまく交わって、その結果光ったものをどこか記憶の片隅に残しておけばいいじゃない、と理想ばかりを追い求める。



生まれ育った町のことを思い出してみる。あの町の海岸の護岸作業はずいぶんと前に終わってしまって、もう砂浜に降りて海の水に触れることはできない。十代の終わりによく眺めていた真っ暗な海の先に見えるほのかな灯りのことは今でもはっきり覚えている。暗闇の先にある小さな灯り、おだやかな暮らし、ささいな喜び。



半蔵門線に乗って渋谷に戻る途中に生まれたのは今回もまた同じ感情で、見知らぬ人々が交じわる交差点を渡るときにはすっかり正気に戻っていた。あの雑踏であの人ごみの中で、幸福な無名時代を過ごせる時間は、もしかたらとても大切な時間なのかもしれない。