電車の中でプラトンの『饗宴』を読みながらエロース(愛)とやらについてぐだぐだ考えていたら、向かいの席に若い女の子が二人座った。

お互いに、今付き合っているという男の子のことや友人のことを大きな声で酷評しており、どうやら二人ともとにかく恰好のよい男の子と付き合いたいらしい。

それはとても自然なことで、さてその彼女らの態度に対してプラトン先生はいかに答えを出すのだろうか、と本の解説の部分を読んでいたら、どうやら人は美を求める生物であるらしく、なるほどそうか恰好がよい(あるいはかわいい)というのは一種の美の追求であり、なんだ皆哲学しているではありませんか、などとぼんやり考えたりしていた。

街中のモスバーガーでは、どうやら今開かれているお祭りで知り合ったと思われる十代半ばから後半の頃の齢らしき男の子と女の子が話していた。「それじゃあ連絡先おしえてーや」と話す男の子にかわいらしさを覚えてしまったり。二人のこの先はどのような方向へ向かっていくのかしらん、なんて想像、保護者だか近所のオジサンだか分からないようなおっせかいをやいてしまった。


と、書いていたら母親に話しかけられて、中断。何が書きたかったんだっけ。やっぱり文章を書くのは一人でなくてはいけない。


そう、そんなモスバーガーでは、いろんな人たちが入ったり出たりで、観察のしがいがあった。それにしても声の大きい人というのは少し苦手だ。そんなに大きな声を出したり、始終話していたら、ゆっくりと考えることなんて出来なくて、そう、エロースとやらについても全然考えられなくて、でも、そんなことは知らなくても人なんて実践してしまうわけだから、それでよいのかもしれない。ギリシアの時代から人なんて全然変わっていない、ということはその頃の作品を読めば容易に分かるわけで、たかだか数十年しか生きられず彼らの得た知識であるとか経験であるとかその他諸々はその後に生きる人々には直接的には受け継がれることはないのだから、それは当然のことかもしれない。



たくさんの物事を一つずつ進めているけれど、いくつかは停滞ぎみで。そのうちの一つは、すこし、挫けそうになっている。