no title


久しぶりに二日続けて研究の話をした。


話しながら、「面白さ」の感じ方が2,3年前とはまったく変わったみたいだなやっぱり、と確信した。ネットへの興味も、その他あらゆることへの興味も、少しずつ変わってきている気がする。きっと、自分なりの消化の仕方がある程度固まったのだろう。多くのことへの興味はいまだに失われてはいないけれど、自分にとって重要なものがはっきりしているせいか、心が動くことはほどんどなくなった。他人がやりたいことは自分のやりたいことではないし、自分と近いことをやっている人がいても自分とその人の違いを感じて、自分も他人も尊重できるようになったのはとても大きなことだとおもう。親しい友人に連絡をすれば彼らは彼らなりに自分のことを受け入れてくれていて、離れているけれど、お互い変わり(代わり)はないのだということを感じられる。


思えば難しく考えていたことは結局単純な答えに行き着いたし、信じられそうな人の言うことはいつまで経っても信じることができる気がする。単純な毎日をやり過ごすことがあれほど苦痛であったことはまるで嘘みたいで、こうやって毎日やっていく日々と並んで歩いていくことが出来れば、案外この先も楽しいんじゃないか、と思っている。毎日に追われていた日々があり、毎日を追いかけた日々があったけれど、今はやっぱり同列で進んでいるという感覚をもてる。楽しみを外に見出して刺激に大して反射的に動いていた頃に比べて、日々はとても落ち着いていて、少し驚くけれど、かつて満たされていた日々の中には特別なことなんて一つもなくて、それが時間の経過とともに特別なものに変質していったのではないだろうか。だから今はその時間を待つことが自分に課せられた使命のようなものなのかもしれない。


随分と回り道をさせらてはいるけれど、どうやら迷っているわけではないらしい、ということが少ない手がかりから分かる。あるいはようやく分かるようになった。そうした手がかりを見逃さないように、もちろんすべてを見逃さないで過ごすことは出来ないけれど、できるだけ見逃さないようにすれば、たぶん自分の満足した選択が出来るんじゃないかな。それが今日飯田橋駅の前で話したことであって、あるいは自分が研究を通して考えたことだ、と言ったことだとおもう。次に自分が何をつかむのかはよく分からないけれど、少しだけ指先が触れている気がしている。その感触が正しいのかはさっぱりわからないけれど、今までだってそうやってやってきたし、やっぱり信じてみるしかないのかもしれない。