no title


とある有名人のつぶやきを見ていたら「あなたの考えていることをここで押し付けないでください」というようなことを言っている人がいて、そうだよなあ、と妙に関心してしまった。見たくないものも見えるし、本当はちょっと見たいものも見えるのがきっとインターネットで、それはきっとインターネットとは関係のないところで生きてきた我々人間にとってはとても奇妙なものなのだろう。こうやってネット上に日記を書くということも、あと10年くらいしてインターネットがすっかり普及してしまったときには、こんな風に自由に書くことはもう出来ないのかもしれない。お茶の間のテレビのようにみんなが笑って楽しめるものしか書いてはいけない、ということになるのだろうか。ここに書き綴られる言葉はきっと多くの人に向けた言葉ではないので、そうなると、この日記はきっと深夜映画の時間枠のように月に数回、深夜1時以降にしかサイトにアクセスできなくなってしまうが、それはそれでちょっと貴重な感じがするし、おませな高校生くらいが覗きにくるのもうれしいかもな、と思っている。


先日から自分のたどってきた道についてずっと振り返っている。どうやったって自分で選択してきた結果であって、偶然の機会・偶然の出来事の只中にいながらも、結局は自身で選択したものであるのだなあ、とある種の感慨を得ているのだけれど、たぶん、こうした感慨に浸っているにはまだちょっと若すぎて、もう少しがむしゃらになってもいいんじゃないかな、と4年前に大学院に入学したばかりのときに友人に出したメールを読みながらその若さゆえの勢いのよさに若干恥ずかしさを覚えつつも微笑ましく眺めた後に、そろそろ重い腰をあげて自分のやりたいことをやってもいいんじゃないかね、と思い始めた。


そういえば、そうやって振り返っているときに考えていたのはやはり自身に影響を与えたものについてで、それは今や随分と有名になってしまった研究者の方のブログだったり、あるいはかつてインターネット上で盛んに議論を行っていた一部の人たちであったりで、そうした人々への敬意は忘れないつもりだけれど、やはり自分の道は自分で進んでいくわけで、距離を置くことも大事なのかな、という気がしている。まああれから随分と成長したなあ、と思うけれど、ありそうでない接点というのはこのままずっと平行線なのかもしれない、という気もしていて、自分の心地のよいもので身の回りを固めてしまうのもそれはそれで潔くていいんじゃないかな、と自分を肯定してみたりしている。見たくないものは見なくていい、なんて意見を完全に飲むわけにはいかないけれど、見なくていいものは、やっぱり極力見なくていいんじゃないかな。そんな気がしていて、最近は自分の心地の良い言葉を選んで読んでいる。


こんな風に日記を書き出してみれば、やはりかつてのように書き綴られるわけで、「日記しかかけない」なんて冗談じゃなくてわりと本気だったりするのがちょっと恐いような嬉しいような。今夜は小雨の降る夜である。


110527