no title


公園のベンチに座ってぼんやりとしていたら、手足に蚊がとまりどんどんと血を吸い込んでいく。痒いなあ、とおもいながらも、自分の血がめぐりめぐって新たな命に形を変えるのであれば、それも悪くないな、なんて空想を重ねていたら日が暮れた。高台にある公園も夕刻すっかりと陽が当たらなくなり、仕事帰りのサラリーマンが眼前を通りすぎていく。大学院生であった時分、かならず夕暮れ時にはキャンパスのベンチに座って夕陽をながめていたが、これはひとつの儀式のようなものであったのかもしれない。一日を終えるための儀式。いくつかの通過儀礼に失敗してしまった過去の自分に対して、そうした儀式は他者から与えられた儀礼をこなすことが出来ない自分が、自分自身に課したもので、もしかしたら自分自身を守るため・肯定するためのものなのかもしれない。通過できなかった場所に戻る必要があるのかどうかは、正直よく分からない。分からないけれど、戻らなければいけない場所というのはきっとどうやったって戻ってしまうもので、それは時間のみが解決するのだろう。



自転車に乗って、隣町の駅まで走る途中に幸せについて考えてみる。昨日酒に酔った友人から電話がかかってきて話したのは「自分の人生は自分でなんとかするしかないよね」ということで、どうやらこれは端から見たらきちんとした社会人を淡々とやっている人間でも同じようなことを考えているらしい。大きな会社・伝統のある会社で働くことで感じる違和感をいくつか教わり、晩ご飯のために作った生姜焼きを頬張りながら、うんうんと首を縦に振りながら話を聞いていた。週末に秋田から東京に来る友人の「土曜日に、また」という言葉で途切れそうになった会話の最後に「ありがとう」という言葉が思わず出てきて、そういえばどうしたものか途方に暮れていたときに高校のときの友人に掛けた電話の最後、電話口から聴こえてきた言葉も同じものだったと思い出した。



右を見ても左を見ても、人がいる。インターネットで検索をかけても、街を歩いても人がいる。よくもまあこんなにもたくさん人がいるものだなあ、と相変わらず日々感じている。これまでの数年の時間の中でもっとも多くの時間を費やして考えたことのひとつは「自分の役割とは何なのか」ということだったようにおもう。研究を始めた当初も「こんなに色んなことが研究されているのに自分は一体何が出来るのだろう」と途方に暮れたことを記憶している。それは仕事においても同じようで、たくさんの人がいてたくさんのことが行われている中で自身が何が出来るのかという役割を探すことが重要であるらしい。お金や名声や地位を得て得られる満足感もあるしそれ自体は悪いことだとは思わないのだけれど、どうやら自分の欲しいものではないということは既に感づいている。自身の役割を果たすこと、というのがもしかしたら自分が探していることかもしれない、と最近感じ始めた。自分に出来ることと他者が望むことの中間地点を手探りで進んでいくこと(そして手触りだけでも覚えて帰ってくること)。これが自身が自身に課した次の新たな通貨儀礼なのかもしれない。




今日の一冊

という、はなし

という、はなし


吉田篤弘 × フジモトマサル

かねがね吉田篤弘(とさらに言ってしまえば勝手に似ている作家だと思い込んでいるいしいしんじ)のことは長年気になっていたのだけれど彼の書く文章は読んだことがなかった。*1初の吉田篤弘は、とてもよかった。読書に関わる絵をフジモトマサルが描き、それに吉田が文を書く、という体裁。

一枚の絵から広がる空想の豊さとユーモアがすばらしく、くすくす可笑しがりながら読み終えた。



今日の一曲

Gregory and the Hawk - Oats We Sow



*1:クラフト・エヴィング商會はとても好きで、ああいう夫婦での活動にはとても憧れている。